核は強い。納品日から逆算してたった一日しかない伐り日、生の青竹が乾いた竹より刃に素直でしかも倍重いという手の感覚、門松の斜め切り=「そぎ」を笑い口と呼ぶ仕事の名づけ、そして納めた青竹がいちばん青い夜には自分は座敷にいないという宿命。この四点で一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用せず、「儚さの美学」という出来合いの叙情で前後を包み、最終段で主題を自分の口で説明して回収してしまっていることだ。竹を割る人の手は確かなのに、文章の手つきが揺れている。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「その青さは数日でしか保たない、儚い美しさだ。」
第一段でもう「儚い美しさ」と言ってしまっている。これは青竹について言っているようで、何についてでも言える既製の叙情シールだ。桜にも、花火にも、初雪にも貼れる。この書き手の強みは「数日で抜ける」という事実を伐り日の逆算という動作で示せることなのに、その手前で「儚い」と要約してしまうから、あとに続く具体が要約の追認に格下げされる。儚さは言うものではなく、逆算する一日として読者に起こさせるものだ。
「梅雨が明けるころと、霜が降りるころ、私の手は急に青い竹を欲しがる。季節が、私に注文をくれているような気がする。」
「季節が注文をくれる」は詩的に見えて、実際は注文票を見ない言い訳だ。この職人に本当に来るのは、季節ではなく料亭の電話であり、何人前の樋を何日までに、という具体だ。手が竹を「欲しがる」も同じで、欲しがるのは手ではなく、入る注文だ。職業の現実(誰が、いつ、何本、いくらで頼むか)を、自然の情緒に溶かして曖昧にしている。
「季節が、私に注文をくれているような気がする。」/「それがこの仕事の、いちばん美しいところなのかもしれない。」
伐り日は一日しかない、生竹は乾竹の倍重い、と断定で測れる人物が、肝心のところで「ような気がする」「かもしれない」と逃げる。これは怯えではなく、断言を避ける作者の保険だ。デビュー作の親方は「籠の出来は、ひごで決まってる」と言い切った。その声を継ぐ語り手なら、青竹についても言い切れるはずだ。「美しいところなのかもしれない」と濁した瞬間、それまで積んだ重さと角度の数値が、ぜんぶ気分の話に見えてしまう。
「客はそうめんを食べながら、樋の青さを見る。けれど私は、その青がいちばんきれいな夜には、もう工房にいない。」
「樋の青さを見る」は、作っていない人間の眺めだ。樋を作った人間が気にするのは、青さより前に、半割りの竹のどちら側に水が寄るか、節をどこまで削いだか、水を流したとき継ぎ目が漏れないかだ。第一稿は別の段で「割り口を間違えれば水は片側へ寄ってこぼれる」と正しく書けているのに、客の前ではその目を捨てて「青さ」だけ見ている。職人の目と、客の目を、書き分けられていない。デビュー作の「縁を指でなぞる客/色と形を見る客」の鋭さがここでは消えている。
「色が変わるから、この値段なんです」/「儚いものほど、手がかかる。」
「色が変わるから、この値段なんです」は台詞として効いている。惜しいのはそのあとだ。「儚いものほど、手がかかる」と地の文で言い換えてしまう。台詞が運んだものを、作者がもう一度抽象語で運び直している。客にどう言ったか(伐り日・生竹の重さ・青いうちの仕上げ)まで台詞で具体に積んだなら、地の文の格言はいらない。説明を足すたびに、台詞の値打ちが下がる。
「立ち会えないことが、青竹なのだ。儚さを引き受けて、見えない一瞬のために手を尽くす——それがこの仕事の、いちばん美しいところなのかもしれない。」
このエッセイの主題を、主題文として書いてしまっている。「立ち会えないことが、青竹なのだ」は、読者が伐り日の段と座敷の段から自分で受け取るべき結論だ。それを作者が先に言い、さらに「儚さを引き受けて…手を尽くす」と解説を重ねる。主題を要約したらエッセイではなく要約になる、というデビュー作のレビューと同じ過ちを繰り返している。動作(前夜に伐り、朝に編み、昼に届けて帰る)はもうこの段にある。だったら格言はまるごと不要だ。
「生きている竹を、私は手のなかで感じる。」
この一文は、木工にも、陶芸にも、料理にも、そのまま置ける汎用文だ。「素直で、重い」という直前の二語のほうがよほど竹を語っている。「手のなかで感じる」のなら、何を感じたのかを書くしかない。割るとき刃が吸い込まれる速さか、持ち上げたときの水の重さか、切り口から滲む青い汁か。感じた中身を書かなければ、感性を述べただけで観察はゼロだ。
残すべきは四つ。納品から逆算してたった一日の伐り日、生竹が乾竹より素直でしかも倍重いという刃と腕の感覚、「そぎ」を笑い口と呼ぶ名づけ、そして「色が変わるから、この値段なんです」の台詞。削るべきは、「儚い美しさ」の前置き、季節が注文をくれるという擬人化、「ような気がする/かもしれない」の留保語尾、最終段の主題解説と「いちばん美しいところ」の自己賛美。改稿では、客の前で青くなる竹に立ち会えないことを、作者が説明せず、前夜に伐って昼に帰るという動作だけで終わらせること。座敷の客の目ではなく、半割りの水路を削る職人の目で樋を見ること。意味は動作と数値が運ぶ。格言が運ぶのではない。