青竹の、注文
油を抜かない生の竹を、数日で色の変わる贅沢のために編む

スガヌマカリン(35歳・竹細工職人13年)

ふだん私が編むのは、油を抜いて飴色になるまで干した竹だ。けれど料亭から来る注文は、青いままの竹を使う。油も抜かず、干しもしない、伐ったばかりの生の竹。その青さは数日でしか保たない、儚い美しさだ。手のひらに残る青竹の匂いは、いつもより濃く、青くさい。

青竹の仕事には、暦がある。夏は流しそうめんの樋。冬は門松。この二つが、青竹細工屋の二つの繁忙期だ。あいだの季節は、いつもの飴色の籠を編んで過ごす。けれど梅雨が明けるころと、霜が降りるころ、私の手は急に青い竹を欲しがる。季節が、私に注文をくれているような気がする。

青竹の仕事で何より神経を使うのは、伐る日だ。納品の日から逆算する。青さは、伐った日から数えて数日で抜けていく。料亭の主人が客に出したいその夜に、いちばん青くいてほしい。だから私は、納める前の日の朝に山へ入る。早く伐れば色が抜け、遅く伐れば細工が間に合わない。伐り日は、たった一日しかない。

生の竹は、乾いた竹とは刃の入り方がまるで違う。乾いた竹は割るとき繊維が引っぱり合って、刃を厚いほうへ持っていこうとする。けれど水気をたっぷり含んだ青竹は、刃に素直だ。すっと入る。そのかわり重い。一本持ち上げるだけで、乾いた竹の倍はある。素直で、重い。生きている竹を、私は手のなかで感じる。

夏の樋は、太い孟宗竹を縦に半分に割って節を抜く。割り口を間違えれば、水は片側へ寄ってこぼれる。そうめんが流れていくその水路を、私は青いうちに削る。客はそうめんを食べながら、樋の青さを見る。けれど私は、その青がいちばんきれいな夜には、もう工房にいない。

冬の門松は、太い竹を斜めに切る。この斜め切りを「そぎ」と呼ぶ。切り口の角度ひとつで、門松の顔つきが変わる。鋭く切れば凜として、ゆるく切れば笑っているように見える。笑い口、と私たちは呼ぶ。年の瀬、私は何十本もの竹に笑い口を作る。師走の工房は、青竹の匂いと、笑った竹の切り口でいっぱいになる。

青竹の細工は、値段の説明がむずかしい。数日で色が変わってしまうものに、なぜこの値段を払うのか。私はこう言う。「色が変わるから、この値段なんです」。一年もつ籠と、三日の青竹。手間は同じか、青竹のほうがむしろ多い。伐り日を選び、生の重い竹を割り、青いうちに仕上げて届ける。儚いものほど、手がかかる。

私が納めた青竹が、いちばん青く、いちばんきれいになる瞬間に、私は立ち会えない。それは料亭の座敷の、客の前でだけ訪れる。私はその前夜に伐り、その朝に編み、昼に届けて、工房に帰る。立ち会えないことが、青竹なのだ。儚さを引き受けて、見えない一瞬のために手を尽くす——それがこの仕事の、いちばん美しいところなのかもしれない。

梅雨明けと霜の季節が過ぎれば、私はまた飴色の竹に戻る。青竹の匂いは指から消え、手は落ち着いた茶色の竹を割りはじめる。けれど次の夏が来れば、私の手はまた青さを欲しがるだろう。数日で消える色のために、私は毎年、山へ入る。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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