修理の、籠(第二稿)
壊れた籠を持ち込まれて、前の職人の手と向き合う日々

スガヌマカリン(35歳・竹細工職人13年)

台の上に、底の抜けた米研ぎざるが置かれる。近ごろは新しい籠を編むより、こうして壊れた籠を直す日のほうが多い。持ち込まれる壊れ方には定番がある。ざるは底が抜ける。毎日水にあてて研ぐから、底の網代がいちばん早く擦り切れる。買い物籠は縁がほつれる。重い荷で持ち手の付け根に力が集まり、縁の巻きからほどけていく。壊れた場所を見れば、その籠がどう使われてきたかが読める。

直すには、まずほどく。底の抜けたざるを裏返し、傷んだひごを一本ずつ抜いていくと、編んだ人の手が出てくる。このざるを編んだ職人は、割り終いの一本だけ節を避けずに突っ切っていた。面取りも片側しかしていない。急いでいたのか、そういう流儀だったのか。名前も知らない、もう会えない手の癖が、抜いたひごの上に残っている。

直すというのは、その癖を一度受け取って、自分の手でそこへ戻す作業だ。揃いすぎても籠が浮く。前の職人がわざと端を細くしていたなら、継ぐ一本も少し細くする。きれいに直すのではない。前の手のとなりに、自分の手をそっと並べる。それが部分修理の、いちばん神経を使うところだ。

古いひごは長年の手脂と日でくすみ、飴色に近い茶になっている。そこへ新しいひごを継げば、その一本だけが青白く浮く。継いだ縁を指で撫でて、客に見せる。「ここ、半年使えば馴染みます。いまは浮きますけど」。客はたいてい、その一本を自分の指でなぞって帰る。色の差は時間が消す。けれど継いだ日の浮きだけは、私と客のあいだに残る。

直すか、作り直すか。相談になると、値段の逆転を言わねばならない。手間のかかる修理は、新品より高くつく。「直したほうが高いんですよ」と私は言う。それでも直す、と言う人がいる。母が使っていた籠だから。嫁入りに持ってきた籠だから。私はそれを「思い出ですね」とまとめない。まとめた瞬間、その籠が安くなる。

ときどき、煤竹の籠が来る。囲炉裏の上に何十年と吊られ、煙で燻され続けた古い竹で編まれた籠だ。煤竹は、もう手に入らない。囲炉裏のある家が消えれば、あの飴色を生む竹も生まれない。だからこの籠には、新しいひごを足すのがためらわれる。継いだ一本が、何十年ぶんの飴色のなかで、いつまでも若い。それでも客は、この籠で米を研ぎたいと言う。

直し終えた籠は、裏返して縁を一周、指の腹でなぞる。継いだひごと古いひごの境目。そこは硬さが違う。撓んだとき、力はここに集まる。次に壊れるなら、この継ぎ目からだ。私は親指で軽く押さえて、その日を数える。会えない手のとなりに並べた自分の手も、いつか誰かにほどかれて、癖を読まれる。籠を客に返し、台を拭いて、次の壊れた籠を待つ。

← 第一稿
辛口レビュー
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。