スガヌマカリン(35歳・竹細工職人13年)
春のおわり、工房に庭師から電話が来た。四つ目垣を一枚立てるので、竹の調達と下ごしらえを頼みたいという。和の庭の風情というものに、私はそれまで縁がなかった。籠を編む手で垣根の竹に触れるのは、なんだか不思議な気もした。
電話の主はオオエサトルさんといって、庭師を三十年やっている人だった。注文は具体的だった。立子は真竹の三年もの、胴縁は同じく真竹で、立子より一回り太いもの。本数と長さを言われ、私は手元の紙に書き取った。籠なら自分で見立てる竹を、人の指図で揃えるのは初めてだった。
竹藪に入って、私はいつもの癖でひごになる竹を探していた。節と節のあいだが長く、まっすぐで、肉の厚すぎないもの。けれどオオエさんが欲しいのはそれではなかった。「景色になる竹を」と言われた。垣根は遠くから見られる。だから揃いの太さと、青のきれいさで選ぶ。同じ竹藪を歩いて、私とオオエさんは別の竹を指さしていた。同じ竹の、別の目だったのだ。
下ごしらえは、私の領分だった。切った竹を洗い、油抜きをして、節のささくれを払う。垣根の竹は籠ほど薄く割らないが、立子の長さを揃え、切り口を斜めに整える段取りは、手が覚えている工程に近かった。青竹のいい匂いが工房に満ちて、季節を感じさせる時間だったように思う。
立てる日、オオエさんの手入れする庭に入った。地面に親柱を据え、胴縁を渡し、立子を等間隔に並べていく。私は立子を手渡す係から始めて、途中から結びを任された。交点を留めるのは、シュロ縄のいぼ結びだ。男結びとも呼ぶらしい。縄を交差させ、ひと結びして、縛り目がいぼのように外へ向く。並んだ結びの向きが揃っていると、垣根は遠目に静かに見える。
同じ結びを、オオエさんと並んでやってみて、手の違いがはっきりした。私は編む手だから、縄を指の腹で送って、目を詰めるように締める。オオエさんは立てる手だから、縄を手首ごと回して、ぐいと一度で締める。結び目の形は同じなのに、力の入り方が違う。籠の編みは内へ内へと締め、垣根の結びは外へ張って締める。竹に触る手が、こんなに違うとは思わなかった。
休みのとき、互いの道具を見せ合った。私は腰に提げた竹割り包丁を抜いた。刃は厚く、竹の繊維に沿って割り進むためのものだ。オオエさんは庭鋏を見せてくれた。片刃で、木の枝を斜めに切る。竹に触れる刃でも、片や割るための刃、片や切るための刃。二つの刃を並べると、同じ竹を相手にしていても、向き合い方がまるで違うのが見てとれた。
結いながら、オオエさんが垣根の寿命の話をした。雨ざらしの青竹は、二、三年で色があせる。五年もすれば飴色を通り越して灰になり、節の際から割れが入る。七、八年で立子を入れ替える。庭の竹は、はじめから色あせることを織り込んで立てる。籠は屋内で二十年使われることもあるのに、垣根は外で老いていくのを前提にしている。同じ竹なのに、時間の流れ方が違うのだと、淡々と聞いた。
夕方、四つ目垣は結い上がった。等間隔の格子の向こうに、オオエさんの手入れした庭が見えた。私が籠を編むのは、人の手のそばに長くいる竹のためだ。オオエさんが垣根を立てるのは、景色のなかで静かに老いていく竹のためだ。私たちは同じ竹藪の竹を、別の目で見ていた。けれど結び目を並べたとき、手の違いは一本の垣根のなかでひとつになった。竹に触る道は一つではないのだと、いまでは思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。