判子の、左下(第二稿)
コメダ、同じ週の土曜、朝八時(ベテラン篇)

窓際の奥。新聞を広げたワタナベ(六十五)の向かいに、杉浦恒夫(六十三)が座る。高校の二年後輩。月に一度、土曜の朝にここで会う。杉浦は大学の事務を四十一年やって、来年の三月で終わる。

いつもの席

ワタナベあと半年か

杉浦五か月と少しです

ワタナベ数えてるな

杉浦数えるのが仕事ですから

モーニングが二つ来る。ワタナベはトーストを半分に割る。杉浦はゆで卵を割らずに皿の端に置く。

ワタナベ辞めたら何をする

杉浦決めてません。先輩は

ワタナベ散歩。それと、昔の会社の言葉を書き出してる。もう誰も使わんやつ

杉浦私が書き出したら、人の名前と金額ばかりになりますね

九十八パーセント

杉浦四月に入った子が、精算の仕組みを作ったんです。領収書をフォルダに置くと、機械が読んで、表にして、カードの明細と突き合わせる

ワタナベ全部か

杉浦手書きはまだ読めないそうです。それはあの子が夜に直してる。九月分が二百十二枚で、合わないのが四枚。そのうち二枚はドル払いでした

ワタナベそれは、すごいのか

杉浦ドルの二枚は、私なら毎年一枚は見落とします。……あの子が見つけて、私が見つけなかった。それが、少し悔しかった

ワタナベ悔しいのか、六十三で

杉浦六十三でも

ワタナベで、褒めたのか

杉浦「同じ日に同じ額が二回ありますね」と言いました

ワタナベそれは褒めてない

杉浦それから、「紙で、お願いします」と

一万円

ワタナベなんで紙なんだ

杉浦規程にあるので

ワタナベ俺にもそれか

杉浦……一万円って、半端だと思いませんか。五千円でも十万円でもなく

ワタナベ思わん。きりがいい

杉浦あれは、ある年の差額なんです

ワタナベ何の

杉浦規程には書いてありません

ワタナベ、杉浦の顔を見る。杉浦は新聞の見出しのほうを見ている。ワタナベは聞くのをやめる。

左下

杉浦、上着の内ポケットから印鑑ケースを出す。

杉浦これ、三本目です

ワタナベ判子が減るのか

杉浦減ります。坂の上の印章屋で、三本とも同じ字で。持っていくと、三代目が印面を見て「また左下ですね」と言う

ワタナベ左下

杉浦置いて、まず左下に体重をかける。それから全体を押す。そうすると、ずれない

ワタナベずれたら困るのか

杉浦ずれた判は、あとで誰のか分からなくなります

ワタナベ判子なんか、うちじゃ誰も中を見ずに押してたぞ。回ってきたら押す。押した数で忙しいふりをする

杉浦そういう判もあります

ワタナベお前のは違うのか

杉浦私のは、見てから押します。見たことになるので

ワタナベ見たことになるのが、そんなにいいか。俺は、見たことにされて損ばかりした

杉浦……損はします

杉浦、ケースを閉じて、テーブルの上に置いたままにする。

ノンアルの缶

杉浦木曜に、四階の先生が精算に来てました。あの人が助手だったころ、最初の科研の精算を私がやった。領収書の束を輪ゴムで三重に留めて、全部、日付順に並べてきた人です

ワタナベ几帳面だ

杉浦怖がりなんです。……その日は手提げに、ノンアルの缶が入ってた。机には置かない、と若い子たちに言ってました

ワタナベ置いたらまずいのか

杉浦中身は炭酸です。でも写真が出たら、事務が謝る。謝る文面は私が書く。「ご心配をおかけしましたことを」で始めて、「再発防止に努めてまいります」で終わる。二十年、最後の一行は変えていません

ワタナベ先生はそれを知ってるのか

杉浦知ってると思います。だから置かない

ワタナベお前に書かせないために、か。優しいな

杉浦怖がりなんですよ。私と同じで

隣の席

通路を挟んだ席に、ジャージ姿の高校生が二人座る。片方のジャージは紺色。小倉トーストが二つ来る。

高校生AIで英作文やったら、ずるいって言われた

友達誰に

高校生先生。ルールに書いてないのに

少年はトーストを大きな口で食べて、指についたあんこを舐める。ワタナベ、紺のジャージのほうを見る。

ワタナベあの子、前にもここにいた

杉浦お知り合いですか

ワタナベいや。新聞を拾ってもらった。名前は聞いてない

杉浦聞かないんですか

ワタナベもう会わんと思ってた

坂の下で、月に一度

ワタナベ血圧の薬、まだもらってるのか

杉浦月に一度、坂の下の薬局で。受付が二十二年、同じ人です

ワタナベ話すのか

杉浦処方箋を出して、薬をもらう。それだけです

ワタナベ知り合いか

杉浦昔、同じ課にいました

ワタナベは待つ。杉浦は続けない。

ワタナベその四月の子に、紙の理由を言ってやらんのか

杉浦言ったら、あの子は紙を守ります。真面目だから

ワタナベ言わなかったら

杉浦あの子は、紙じゃないもので同じことをやるかもしれない。誰が、いつ、何を見たか。それが全部残るようになったら、判はいりません

ワタナベ三月までに、か

杉浦間に合えば

ワタナベ間に合わなかったら

杉浦紙が残ります。私がいなくなっても

ワタナベじゃあ、誰が押す

杉浦……

杉浦、答えない。ゆで卵を手に取って、まだ割らない。ワタナベが伝票を取る。

ワタナベ今日は俺が払う

杉浦すみません

杉浦、印鑑ケースを内ポケットに戻す。

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このページの記事はAI(Claude)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。登場人物・場面はフィクションです。