三月三十一日、水曜。大学の坂を下りたところの調剤薬局。待合の長椅子に、杉浦恒夫(六十三)とワタナベ(六十五)が並んで座っている。杉浦は一時間前に、四十一年の勤めを終えた。受付には四十代の女性が一人。カウンターの前で、年配の女性が鞄の中を探している。
客あら、手帳。置いてきちゃった
受付今日の分は、シールでお渡ししますね。お手帳に貼っておいてください
客前のも、まだ貼ってないのよ
受付次にいらっしゃるとき、手帳ごとお持ちください。一緒に貼りましょう
客、シールを財布に挟んで出ていく。ワタナベ、薬局の中を見回す。
ワタナベここか
杉浦はい
ワタナベ二月は、ここのシャッターの前で会ったな
杉浦はい
ワタナベ俺が来たから、入らなかったのか
杉浦いいえ
ワタナベじゃあ、なんで
杉浦まだ、紙がそろっていなかったので
ワタナベそれで、コメダに戻った
杉浦水が、まだ置いてありました
ワタナベ下げるなと言っておいた
ワタナベ鍵は、返したか
杉浦今日、総務に。全部
ワタナベ二番も
杉浦届出に書いてあるので。受領の判をもらいました
ワタナベ誰の
杉浦総務の、去年の四月に入った子の
ワタナベ……そうか
ワタナベ、それ以上は言わない。
受付杉浦さん
杉浦、立って、カウンターへ行く。ワタナベは長椅子に残る。
受付今日も、二十八日分です。お変わりないですか
杉浦はい
受付八百十円です
杉浦、千円札を出す。受付、おつりとレシートを渡し、それから領収書を一枚、重ねる。
受付領収書
杉浦お願いします
杉浦、領収書を受け取る。上着の内ポケットからクリアファイルを一つ出して、カウンターに置く。
杉浦合っていました
受付、クリアファイルから紙を出す。精算書の写し。封筒の写し。出納帳の写し。会計課の受領の写し。いちばん下に、一行だけの記録。受付、指サックをした指で、数字を一つずつ追う。
受付仮払い、一万円。使用額、ゼロ。返金、一万円。年度末の不足、一万円
受付、顔を上げない。
受付合っています
受付、精算書の写しの、受付の欄を見る。空いている。カウンターの日付印を取り、日付を確かめて、その欄に押す。写しを、処方箋の控えの綴りに入れる。
受付お大事に
杉浦、頭を下げる。長椅子のワタナベは、窓の外を見ている。
薬局の外。坂の上に、大学の建物の灯りが、まだいくつか点いている。
ワタナベ何を渡した
杉浦受付に出す紙を
ワタナベ二十二年、かかったな
杉浦二十三年です。年度で数えると
ワタナベ判子は、どうする
杉浦十月に、坂の上で供養してもらいます。辞めた人からも、受けるそうなので
ワタナベ明日から、何に押す
杉浦宅配便くらいです
ワタナベあれは、サインでいいだろう
杉浦……そうですね
ワタナベ、笑う。杉浦も、少し笑う。
ワタナベ来月は
杉浦第二土曜の、八時に
二人、坂を上っていく。杉浦、歩きながら、領収書を財布にしまう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。