核は強い。切り直しのきかない房切りの一発勝負、湯のしの蒸気で糸の癖が抜けていく工程、締める部分は無事なのに房だけが痩せるという観察、そして仕上げに自分の腰で締めてみる検品。この四点は、この職人にしか書けない。問題は、書き手がその四点を信用しきれず、両端を「午後のやわらかな光」と「房が全体の印象を決めるのだ」という出来合いの額縁ではさんでしまったことだ。三作目ともなると、組み・染めで効いた手つきが、今度は手癖になりかけている。同じ型で締める癖がいちばん危ない。
「窓辺には午後のやわらかな光が差し込んで、机の上には鋏が静かに置かれている。」
「やわらかな光」「静かに置かれた道具」。糸染めの第一稿で批判された「季節の光が静かに差し込んで」と、ほとんど同じ部品でできている。前作の反省が効いていない。房切りをする人がまず見るのは光ではなく、房の長さを測る定規の刻みか、揃わずに飛び出した一本か、切り終えた糸くずの落ち方のはずだ。雰囲気が先に立ち、人物が後から来ている。
「最後のひと手間にこそ、職人の心が宿るのだと思う。」
これは生成文の最頻出フレーズの一つで、どの職人エッセイの冒頭にも貼れる汎用シールだ。「ひと手間」「心が宿る」「職人」——三語そろうと、もう中身を読まなくても先が読める。この人が本当に房を切っているなら、宿るのは「心」ではなく、鋏の重みか、束を握る左手の力加減のはずだ。抽象名詞で締めず、手の動作で語ること。
「だから私は鋏を持つたびに、息を止めているのかもしれない。」「房の形ひとつで、その帯締めの性格が変わってくるのだと思う。」
房切りで息を止めるかどうかを、八年やってきた本人が「かもしれない」で語るのはおかしい。糸染めの第二稿では「透かしている数秒、私は息を詰めている」と断定できていた。ここで「かもしれない」に後退しているのは、語り手の不安ではなく、書き手の保険だ。「変わってくるのだと思う」も同じ。職人は変わると知っているから使い分ける。「思う」で逃げない。
「一本ずつ、指の腹で糸を転がして撚りを入れていく。」「やかんの口から立つ湯気に房をかざすと、ばらけて縮れていた糸が、すうっと素直になっていく。」
どちらも「それらしい」が、観察が一段足りない。撚り房なら、撚りをかけた糸が戻らないよう端をどう留めるのか(湯のしか、糊か、結びか)が抜けている。「指の腹で転がす」は誰でも想像で書ける。湯のしも、「すうっと素直になっていく」と気分で流さず、蒸気を当てすぎると逆にどうなるか、何秒で離すかという失敗の境目を書けば、染めの「八十度を越えさせない」に匹敵する芯になる。「蘇るような気がする」は、見たことではなく言いたいことだ。
「房が、その帯締めの全体の印象を決めるのだ。」「房は、その帯締めが過ごしてきた時間を、いちばん正直に語る場所なのかもしれない。」
前者は完全な主題文だ。「染めが組みを決める」を「房が全体を決める」に置き換えただけで、シリーズで三回目の「○○がすべてを決める」構文になっている。読者はもう気づく。後者も、痩せた房と仕舞い癖の描写がすでに全部語っているのに、それを抽象語で要約し直して値打ちを下げている。決めるのは描写であって、まとめ文ではない。
「何ヶ月も組んできた紐の運命が、この一瞬の鋏の音で決まってしまう。」
「運命」が安い。陶芸の窯出しにも、料理の盛り付けにも、そのまま置ける一文だ。房切りに固有の緊張は「運命」という大語ではなく、もっと小さく具体的なところにある——たとえば、揃えたつもりの房が切ったあとに一本だけ短く見える、その取り返しのつかなさ。大きな言葉は、固有の観察から逃げるための便利語だ。
「私の手が「いい」と言えば、たぶんお客さんの手も「いい」と言ってくれる。そう信じて、ひと締めする。」
ここはこの稿でいちばん良くなれる場所なのに、「手が『いい』と言う」という擬人化で逃げている。自分の腰で締めたとき、具体的に手の何で良し悪しを判断しているのか——締めたときの食いつきか、結び目のすわりか、ほどくときの抜け具合か。そこを書かないと、検品が動作ではなく気分になる。「信じて」も留保の一種。検品は信じる仕事ではなく、確かめる仕事だ。
残すべきは四つ。切り直しのきかない房切りの一発勝負、湯のしで癖が抜ける工程(失敗の境目つきで)、締める部分は無事なのに房だけ痩せるという観察、自分の腰で締める検品。削るべきは、冒頭の「やわらかな光」、「心が宿る」、留保語尾、「運命」「全体の印象を決める」の大語と主題文。改稿では、湯のしに「越えさせない一線」を一つ与えて染めの芯と並べ、検品を「信じる」ではなく手が確かめている具体の動作で書くこと。意味は鋏と蒸気と指が運ぶ。まとめ文が運ぶのではない。