核は強い。元日に止めますのメモを回収して新しい一本を置かずに通り過ぎる動作、止め忘れて帰省した家に残る大晦日の一本、灯りのついた数軒の窓の湯気、保冷箱の重さで松の内明けを知ること。これらは、この書き手が本当に元日の道を漕いだ者だからこそ書ける。問題は、書き手がそれらを信用せず、初日の出めいた抒情と「ずっと寝ている」式の汎用句で場面を薄め、最終段で「受け箱は文通だ」と全部を説明して回収してしまっていることだ。前二作で鍛えたはずの、動作だけで意味を運ぶ手つきが、正月という題材の前で気を抜いている。
「七年、正月も配ってきて、思うことがある。受け箱は、町と私の文通なのだ。」
「七年やってきて、思うことがある」は、前作「ビンと、パック」の結びの判子をそのまま流用しています。同じ書き手が同じ型で締めると、それは作風ではなく手癖です。しかも今回はその直後に主題を直叙してしまっている。次の項で詳しく言います。
「声を交わさなくても、紙きれと空き瓶と灯りで、私たちはずっとやりとりを続けている。元日の静けさは、その文通がいちばん静かに息をしている時間なのだと思う。」
致命的です。止めますのメモも、お願いしますのメモも、本文ですでに見せてある。読者はとうに「これは文通だ」と感じている。それを作者が「文通なのだ」と言葉にした瞬間、読者の発見が作者の要約に格下げされる。しかも三段目ですでに「受け箱は、こういうとき手紙の代わりになるのかもしれない」と一度言い、結びでまた言っている。比喩を二度言う作家は、その比喩を信じていない。
「眠った町のなかに、ぽつ、ぽつと灯る台所。あたたかそうだなあ、と思いながら、私は自転車を漕ぐ。」
「ぽつ、ぽつと灯る」「あたたかそうだなあ」は、正月の朝を検索すれば最初に出てくる絵はがきです。この書き手の手柄は、その前の「ガラスの内側がうっすら曇って、人のいる気配だけが、外までにじんでくる」のほうにある——窓の曇りという具体物で気配を出せている。なのに「あたたかそうだなあ」で台無しにする。配達人は窓の外にいる。あたたかさは見えない。見えるのは曇りと湯気だけのはずです。なお題材メモにあった「初日の出が町を照らして」式の常套を本文で回避できたのは良いが、その回避が「あたたかそうだなあ」という別の常套に逃げただけになっている。
「指で足りるくらいだったと思う。」「雑煮だろうか、それともお茶だろうか。」「その人がどんなふうにこの町を読んでいるのかが、蓋の手ざわりから少しだけ伝わってくる気がする。」
この語り手は七年、毎朝この町を数えてきた人です。元日に灯りのついた家が何軒かは、数えたはずで、「指で足りるくらいだったと思う」と濁す人ではない。前作の彼女は「私の区域は四十一軒。そのうち瓶が十二軒」と即答した。同じ人物が正月だけ急に曖昧になるのは、人物の変化ではなく、断言を避ける作者の保険です。「気がする」「のかもしれない」が一稿に五回以上ある。数えてください。
「タオルが一本、添えられていることもある。『あけましておめでとうございます』と印刷された、ありふれた年始のタオル。」
「ありふれた」は観察ではなく評価です。実際に受け箱でそれを見た人なら、印刷の色(たいてい紺か赤)、薄さ、店名や酒屋の名前が入っていること、受け箱に入れるために細く畳んであること——どれか一つが出るはずです。メモも同じで、文面を二つ引いている(「年内で一旦止めます。よいお年を」「今年もお願いします」)のは良いが、その筆跡や紙には触れていない。前作では「子どもが開けられませんでした」のメモから、剥がしかけのフタの半分まで観察できていた。今回はメモの文面で止まっている。
「区域を入れ替わるとき、ふだん回らない家の受け箱の蓋を、初めて開ける。……その人がどんなふうにこの町を読んでいるのかが、蓋の手ざわりから少しだけ伝わってくる気がする。」
ここは観念で書いています。蓋の手ざわりから「町の読み方」が伝わる、というのは詩的に聞こえるが、実務的に嘘です。他人の区域を一日預かって戸惑うのは、もっと即物的なこと——ルート表の順番が頭に入っていないので一軒行き過ぎる、受け箱の場所が門の内か外か分からない、犬がいる家を知らない。職業の困りごとは具体的で、抒情的ではない。「町を読む」はこの書き手のキャッチコピーであって、ここで安易に持ち出すと自己模倣になる。
「町ぜんたいが、ずっと寝ている、という感じがする。」「年が明けても灯りのつかない窓を見ると、なんだか少しさびしい気持ちになる。」
前者は題材メモの言い換えがそのまま地の文に残ったもの。後者の「なんだか少しさびしい気持ちになる」は、前作の「なんだか少し切ない気持ちになった」とほぼ同文で、二作続けて同じ情緒の閉じ方をしている。感情を名指す(さびしい/切ない)のではなく、感情が出る事実を置くこと。雨戸が閉まり車のない家の前で、彼女が一本を入れずに通り過ぎる——その動作だけで、さびしさは読者の側に立ち上がる。前作の彼女はそれができていた。
残すべきは五つ。止めますのメモを回収して一本を置かずに通り過ぎる動作、止め忘れて帰省した家に残る大晦日の一本、窓の曇りと湯気で出した人の気配、年始のタオルという物そのもの、そして保冷箱の重さで松の内明けを知る感覚。削るべきは、「あたたかそうだなあ」の絵はがき、五回以上の留保語尾、「文通なのだ」の主題直叙、「町を読む」の自己模倣。改稿では、灯りのついた家は数で言い切り(「四軒」のように)、さびしさは動作で運び、最後に「文通」と言わずに終わること。前二作で証明したとおり、意味は動作が運ぶ。今作だけ、それを忘れている。