靴の、左右
義足側の靴は減らない。左右で減り方の違う靴には、その人の歩んできた道のりが宿っている

テガタユウト(36歳・義肢装具士13年)

義足を作る仕事をしていると、靴を見る目が変わってくる。診察室に入ってきた人の足元を、私はつい見てしまう。とくに靴底だ。左右で減り方が違う。健側の踵は斜めに削れ、義足側はほとんど新品のまま。その差が、その人の歩き方の記録になっている。

義足側の靴は、減らない。当たり前のことのようだが、初めて気づいたときは少し驚いた。義足は地面を蹴らない。正確には、足部のばねが返す力で蹴り出してはいるのだが、生身の足のように母趾球で路面を擦るわけではない。だから靴底の前のほうが、いつまでも残る。一年履いても、義足側の靴だけ、買ったときの溝が深いままだ。

靴を変えると歩きにくくなる、という相談をよく受ける。新しい靴に替えたとたん、つまずくようになった、と。原因はたいてい、踵の高さだ。義足は、ある一足の靴に合わせて足部の角度を調整してある。その靴のヒールより高い靴を履けば、足首にあたる部分が前に傾き、膝が抜けやすくなる。低い靴なら後ろへ傾いて、踵が浮く。一センチの差が、歩行を別物にしてしまうのかもしれない。

だから私は、新しい靴を買ったら、必ず持って来てくださいと言う。その靴を履いた状態で立ってもらい、足部の取り付け角度を合わせ直す。スニーカーから革靴に替えるなら、その都度。面倒だと言われることもある。けれど、靴を一足変えるというのは、義足にとっては地面そのものが変わることなのだ。靴は、義足と地面のあいだに挟まる、最後の調整代でもある。

靴底の片減りは、嘘をつかない。健側の踵の外側だけがすり減っている人は、義足を信用しきれず、健側に体重を預けて歩いている。義足側の靴のつま先が不自然に擦れている人は、足を上げきれず、振り回すようにして前へ出している。本人が「うまく歩けています」と言っても、靴底はそうは言っていない。靴底は、歩行の記録なのだ。

調整の多くは、地味なインソールの削りに費やされる。中敷きを一ミリ削る。土踏まずの支えを少し起こす。踵の内側にくさびを入れる。やすりで削っては履いてもらい、また削る。派手な義足の調整より、こうしたインソールの作業のほうが、その人の一日の疲れ方を変えることがある。誰にも見えない一ミリだが、夕方の足の重さが違う、と言ってもらえると、報われた気持ちになる。

装具側の仕事では、靴そのものを作ることもある。整形靴、あるいは靴型装具という。既製の靴に入らない足のための、一足だ。左右でサイズの違う足、変形して甲の高い足、装具ごと収めなければならない足。木型から起こし、採寸し、革を裁つ。世の中の靴はすべて、平均的な足を前提に作られている。その平均から外れた足のために、私たちは一足だけの靴を縫う。

義足になって履けなくなった靴を、捨てられない人がいる。靴箱の奥に、もう履くことのない一足が残っている。「いつか履けるかと思って」と言う人もいれば、何も言わずにただ置いている人もいる。私はそれを、感傷とは呼ばない。サイズの合わなくなった子どもの靴を取っておくのと、たぶん同じ種類のことだ。履けない靴が靴箱にあるという、ただの事実として、私はそれを聞く。

左右で減り方の違う靴を、私は今日も診察室で見ている。減らない義足側の靴と、斜めに削れた健側の靴。その非対称が、その人がどう歩いてきたかを語っている。靴底は歩行の記録なのだ。だから私は、靴を見る。靴を見ることは、その人の歩き方の未来を見ることでもあるのだから。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。