核は確かにある。爪の先でなぞるチャイムのタイマー盤、すり減ったパッキンを替えて止める日曜の水漏れ、片方だけ残った上履きと干し忘れの雑巾。この三つは、用務員にしか書けない。問題は、書き手がこの三つを信用しきれず、西日と静けさの定番でまわりを塗り固め、最後に「学校の裏側の観察者になった」という主題を自分で要約してしまっていることだ。道具の側から学校を見た人を名乗りながら、肝心のところで道具より雰囲気を先に立たせている。職業エッセイは、その職業の手つきが緩むと全部が借り物に見える。
「あの日曜の校舎が、私をいまの私にしてくれたのだと、いまになって思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、トダユウゾウである必然がない。さらに直前の段で三十三年の職歴を要約し、「教室の言葉ではなく、道具の言葉で学校を見続けた」と主題まで言い切っている。読者が一日の見回りから受け取るべきものを、作者が先に回収してしまっている。
「西日が廊下に長く伸びて、磨いたばかりの床が静かに光っていた。」/「窓ガラスが西日を返して、校舎全体が静かに金色になっていた。」
無人の校舎、西日、静けさ、金色。これは「誰もいない学校」を描くときに生成系が必ず出してくる絵葉書で、しかも一本のエッセイで西日を二度使っている。用務員が日曜の校舎で実際に気づくのは、西日の美しさより、土曜に誰も拭かなかったぶんの埃の溜まり方、消えている蛍光灯の本数、止めたはずの放送設備の残留ノイズのはずです。雰囲気が人物より先に立っており、“それっぽさ”の典型。
「鍵には一つずつ古いビニールテープで番号が巻いてあって、それを覚えるのに半月かかったと思う。」/「チャイムは、子どものためではなく、たぶん学校という仕組みのために鳴る。」
用務員は、直ったか直らないか、締まったか締まらないか、で生きている職業です。その人の回想が「〜と思う」「たぶん」で薄まるのは、職業の手つきと噛み合わない。半月で覚えたなら半月だと言い切ればいい。チャイムが何のために鳴るかの感慨も「たぶん」で逃げず、盤の前で何を確かめたかという動作だけを残すほうが、よほどこの人物の手つきになる。
「百葉箱の白い扉を開けると、温度計が二十一度を指していた。校舎の裏には焼却炉があって、土曜に燃やした紙の灰がまだ温かった。」
百葉箱・焼却炉・石灰・ラインカーを一段落に並べて、いかにも昭和の校庭らしい小道具の陳列棚になっている。観察ではなく、年代考証の備品リストです。一つでいい。日曜の見回りで本当にこの人の手が触れた道具を一つ選び、その手ざわり(焼却炉の灰がまだ温かいなら、なぜ日曜に温かいのか=誰かが土曜に燃やした、という事実)まで書かなければ、ただの時代背景の飾りに留まります。
「学校の表側は子どものものだが、裏側は、こういう道具のものだった。」
これはエッセイの主題を主題文として書いてしまった一行です。表と裏、子どもと道具——構図を作者が図解している。砂場をならし、灰の温かさに触れ、上履きをそろえる動作がすでにそれを語っているのに、その上から見出しを貼ると、せっかくの動作の値打ちが下がる。意味は動作が運ぶべきで、作者が言い直すものではない。
「替えのパッキンをはめて締め直すと、垂れは止まった。」/「私はその設定が狂っていないかを、爪の先でダイヤルをなぞって一つずつ確かめた。」
ここが惜しい。パッキン交換は本来この稿でいちばん効く場面なのに、「替えのパッキンをはめて締め直すと、垂れは止まった」と一行で平らげている。スパナのサイズ、止水栓を先に閉めたか、古いパッキンの潰れ方——手順の手ざわりが一つもない。職業の動作は、正確に書くほど嘘がつけなくなる。逆に省くと、見てきたように書いただけに見える。タイマー盤の「狂っていないか確かめた」も、何分の設定をどう確かめたら狂っていないと言えるのか、その判断の根拠が抜けています。
「月曜に持ち主が気づくかどうかは、わからなかったかもしれない。」
「わからなかった」で十分なところに「かもしれない」を足して、二重に逃げています。上履きを棚の奥にそろえて置いた、というのはこの稿で最も静かに効く動作なのに、その直後を留保語尾で濁すと、行為の手ごたえが消える。気づくかどうかは書かなくていい。そろえて置いた、で止めるべきです。
残すべきは四つ。爪の先でなぞるチャイムのタイマー盤、すり減ったパッキンを替えて止める日曜の水漏れ、片方だけの上履きを棚の奥にそろえて置く動作、そして鍵束の音だけが空の校舎に響くこと。削るべきは、二度の西日と金色、留保語尾、備品の陳列、そして「裏側は道具のものだった」「私をいまの私にしてくれた」という主題の自己解説。改稿では、パッキン交換を工具の手順で一段落書き切り、最後は主題を語らず鍵束の音で閉じてください。意味は動作と音が運ぶ。説明が運ぶのではない。