トダユウゾウ(66歳・元小学校用務員)
用務員になったのは二十七のときだ。一九八七年の春、前の職を辞めて入った。腰に鍵束を提げて歩くのが仕事だと、最初の日に教わった。職員玄関、体育館、屋上。鍵には一つずつ古いビニールテープで番号が巻いてあって、それを覚えるのに半月かかったと思う。鍵束は歩くたびに鳴った。学校じゅうで、私の音だけがした。
その年の梅雨どきの日曜、初めて日直が回ってきた。誰もいない学校を一人で見回る当番だ。先輩はこともなげに「鍵だけ確かめてくれ」と言ったが、私は朝、職員玄関の鍵を開けながら、手が少し止まった。子どもの声のしない学校というものを、私はそれまで一度も見たことがなかったのだ。
廊下に立つと、いつもと音が違った。月曜から土曜まで、この廊下は足音とどなり声と上履きのきしむ音で埋まっている。それが全部抜けていた。西日が廊下に長く伸びて、磨いたばかりの床が静かに光っていた。誰もいない学校は、私の知っている「学校」ではなく、よく似た別の建物だった。
職員室の壁に、チャイムのタイマー盤がある。鉄の箱の中に小さなダイヤルが並んでいて、何時何分に鳴るかをそこで決める。月曜の一時間目が八時四十五分。私はその設定が狂っていないかを、爪の先でダイヤルをなぞって一つずつ確かめた。チャイムは、子どものためではなく、たぶん学校という仕組みのために鳴る。日曜の校舎には、それが一度も鳴らない。鳴らないと決まっている時間が、こんなに長いものかと思った。
二階の手洗い場で、蛇口の一つがぽたぽたと垂れていた。締めても止まらない。工具箱からスパナを出して、パッキンを見た。すり減って薄くなっていた。替えのパッキンをはめて締め直すと、垂れは止まった。日曜の校舎で私がした最初の仕事が、これだった。誰も見ていない水漏れを、誰もいない日に直す。それでも月曜の朝には、子どもが何も知らずにその蛇口で手を洗うのだろうと思った。
外に出て、運動場の砂場をならした。前の日の体育で掘り返されたまま、足の跡が固まっていた。トンボを引くと、砂が朝の湿りでひと筋ずつ寄っていく。隅にラインカーが転がっていて、底に石灰が乾いて固まっていた。百葉箱の白い扉を開けると、温度計が二十一度を指していた。校舎の裏には焼却炉があって、土曜に燃やした紙の灰がまだ温かった。学校の表側は子どものものだが、裏側は、こういう道具のものだった。
見回りの終わりに、一年生の教室の靴箱を見た。名前シールの貼られたます目の一つに、上履きが片方だけ残っていた。もう片方がない。机の脚には雑巾が一枚、干し忘れたまま固く乾いて引っかかっていた。子どもが帰ったあとの校舎にだけ、こういうものが残る。授業中には決して見えないものだ。私はその片方の上履きを、棚の奥にそろえて置いた。月曜に持ち主が気づくかどうかは、わからなかったかもしれない。
夕方、最後に屋上の鍵を確かめて、階段を下りた。鍵束の音だけが、空の校舎に響いていた。職員玄関を施錠して振り返ると、窓ガラスが西日を返して、校舎全体が静かに金色になっていた。あの日、私は教室の中ではなく、蛇口と鍵と石灰の側から、初めて学校というものを見たのだと思う。
それから三十三年、二〇二〇年に定年を迎えるまで、私はずっとこの裏側にいた。チャイムを設定し、水を止め、砂をならし、忘れ物を拾った。教室の言葉ではなく、道具の言葉で学校を見続けた。あの日曜の校舎が、私をいまの私にしてくれたのだと、いまになって思う。鍵束はもう手元にないが、あの静けさだけは、まだ耳に残っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。