核は強い。半年前に「不可」と書いた同じ手が、新しい遊具の検収で「可」と書く——この一点だけで一本立つ。説明板の「老朽化のため」が、肉厚と基礎のぐらつきという数値を丸めて隠している、という発見も鋭い。子どもより大人が惜しむ、もいい。問題は、書き手がこれらの強い核を信用しきれず、朝の空気と笑い声の書き割りで場面を立ち上げ、最終段で主題を三度も直叙して自分を赦してしまっていることだ。数値で遊具を「不可」と決める人間を語り手に据えながら、肝心の場面で数値が概念のままなのも惜しい。職業エッセイは、職業の手つきが曖昧だと全部が借り物に見える。
「壊すことも、守ることのうちなのだ。(中略)撤去も、安全のうちなのだ。」
最終段で「同じ仕事なのだ」「守ることのうちなのだ」「安全のうちなのだ」と、同じ主題を語尾を変えて三度押している。判子を三回押せば本物になるわけではない。むしろ一度目で読者が受け取った余韻を、二度目で薄め、三度目で消している。この語り手は数値で線を引く人間なのだから、結論も動作か数字で閉じるべきで、「〜のうちなのだ」という抽象の標語で締めてはいけない。
「朝の冷たい空気のなか、誰もいない公園に重機が一台、静かに待っていた。」「長い年月、たくさんの子どもたちの笑い声を浴びてきた遊具が、最後の朝を迎えていた。」
冷たい空気、静かに待つ重機、たくさんの笑い声、最後の朝。既製の感傷部品の詰め合わせで、九年この仕事をした人間の眼が一つも入っていない。この語り手なら、待っているのは「重機」ではなく型式や爪の形のはずで、浴びてきたのは「笑い声」という総称ではなく、回転部の手すりが手脂で黒光りしている、といった一点のはずだ。雰囲気が人物より先に立っている、生成された“それっぽさ”の典型。
「覚えていたものが消えて立ち止まるのは、長くそこに通った大人なのかもしれない。」
「不可」「可」を断定で書く職業の人間が、観察の結論を「〜かもしれない」で逃がしている。大人が惜しむ、というのは語り手が現場で何度も見てきた事実のはずで、推量ではない。断定を避けているのは怯えた人物の心理ではなく、断言を避ける作者の保険だ。見たことは見たと書く。それがこの語り手の文体の筋である。
「回転部の軸の肉厚が、規定を下回っていた。」「新品で何ミリ、限界が何ミリ、それを切ったら不可——そういう線が引いてある。」
「何ミリ、何ミリ」と書いた時点で、作者がその数字を本当には握っていないことが露呈している。前作のブランコでは「線径十三ミリ、十一ミリを切ったら交換」と具体的に書けていた。同じ語り手が、いちばん肝心の判定根拠で数字を伏字にするのはおかしい。具体的な数値が一つ入るだけで、この遊具を殺したのが感傷ではなく測定だったことが立ち上がる。伏せた瞬間に、職業の論理がただの雰囲気に戻る。
「半年前に不可と書いた同じ手で、今度は可と書く。」
この一行が本稿の核だが、観念の言い回しで通り過ぎている。「同じ手」を本当に効かせるなら、検収票のどの欄に、何の道具で、どんな手応えで丸を付けるのかを書くべきだ。半年前は「不可」に丸を付けた、そのとき手が一瞬止まったのか、止まらなかったのか。可と書く今日、その手は同じ動きをするのか。意味は動作が運ぶ。「同じ手で」と説明されても、読者の手には何も渡らない。
「古いものを「不可」と切り捨てることと、新しいもので子どもが安全に笑うことは、一本の線でつながっている。」
「一本の線でつながっている」は、書かずに読者に引かせるべき線を、作者が先回りして引いてしまっている。第一稿の前半——同じ手で不可と可を書く、説明板が数値を隠す、跡地が平らすぎる——を素直に並べれば、線は読者の中に自然に引かれる。それを一文で要約してしまうと、せっかくの構成が「主題の前振り」に格下げされる。エッセイの主題を主題文で書いたら、それは要約だ。
「その姿を見ると、撤去の日の重機のうなりも、根のようなコンクリートの塊も、すっと胸から消えていく。」
「すっと胸から消えていく」は、別れと再生を扱うどのエッセイにも貼れる汎用の癒やしだ。しかもこの語り手にとって、撤去の記憶が消えてもらっては困る。消えないからこそ「最初に遊ぶ子を見る位置」にわざわざ立つのだろう。消えるのではなく、抱えたまま見る。そう書けば人物が残る。消してしまえば、人物も一緒に消える。
残すべきは四つ。半年前に叩いて「こもった音」を聞いた根元が、コンクリートの塊として地中から出てくること。説明板の「老朽化のため」が肉厚と基礎のぐらつきを丸めて隠していること。「あのジャングルジム、なくなったんですね」と大人が惜しむこと。そして、不可と書いた同じ手が検収で可と書くこと。削るべきは、冷たい空気と笑い声の書き割り、留保語尾、最終段の三連の主題直叙、そして癒やしの汎用文。改稿では、判定の数値を一つ具体的に入れて「測定で殺した」根拠を立て、不可と可は語尾ではなく丸を付ける手の動作で書いてください。意味は動作と数字が運ぶ。標語が運ぶのではない。