トキタハルキ(31歳・公園遊具の点検員9年)
その回転ジャングルジムには、半年前に私が「修理不能」と書いた。点検票の判定欄は三段階で、可、要観察、不可。不可に丸を付けた瞬間に、その遊具の最後の日が、どこか遠くで決まってしまう。決めたのは私なのに、撤去の日取りを知らせる連絡は、ずっと後になって役所から回ってくる。
朝の冷たい空気のなか、誰もいない公園に重機が一台、静かに待っていた。あの見慣れた回転ジャングルジムが、今日でなくなる。長い年月、たくさんの子どもたちの笑い声を浴びてきた遊具が、最後の朝を迎えていた。私は少し離れた場所から、その姿をじっと見つめていた。
重機のアームが、回転軸の付け根を掴む。エンジンがうなり、鉄が地面と引き合う。基礎は地中で思ったより深く、最初の一引きでは抜けなかった。二度、三度。土がめくれ上がり、やがて根のようなコンクリートの塊が、ずるりと地面から出てきた。半年前、私が叩いて「こもった音」を聞いた、あの根元だ。
判定の理由は、本当は数値だ。回転部の軸の肉厚が、規定を下回っていた。新品で何ミリ、限界が何ミリ、それを切ったら不可——そういう線が引いてある。基礎のぐらつきも、手で揺すって何ミリ動くかで決まる。私は数字でこの遊具を殺した。けれど、撤去現場のフェンスに貼られる説明板には、こう書いてある。「老朽化のため撤去しました」。老朽化、という言葉に、肉厚も基礎のぐらつきも、全部やさしく丸めて隠されている。
跡地の処理は、その公園による。基礎の穴を埋め戻して芝を張る公園もあれば、別の新しい遊具を据える公園もある。ベンチを一つ置いて終わり、という公園もある。穴を土で埋めて踏み固めると、まわりより少しだけ平らになる。何があったか、土はもう覚えていない。
数日後、その公園を歩いていると、散歩の年配の方に声をかけられた。「あのジャングルジム、なくなったんですね」。寂しそうだった。不思議なもので、遊具がなくなって惜しむのは、いつも子どもより大人のほうだ。子どもは、新しく置かれたものでまた遊ぶ。覚えていたものが消えて立ち止まるのは、長くそこに通った大人なのかもしれない。
新しい遊具が設置される日も、私は立ち会う。検収だ。ボルトの締め付け、可動部の遊び、着地面の厚み。図面どおりに組まれているかを一つずつ確かめて、引き渡しの書類に判を押す。可、と書く。半年前に不可と書いた同じ手で、今度は可と書く。
設置の翌朝、私はいつも少し離れた場所に立つ。最初に遊ぶ子を見る位置だ。子どもは新しい遊具に、おそるおそる近づいて、すぐに慣れて、笑って漕ぎ出す。その姿を見ると、撤去の日の重機のうなりも、根のようなコンクリートの塊も、すっと胸から消えていく。
撤去を判定する仕事と、撤去によって遊び場が安全になる仕事は、同じ仕事なのだ。古いものを「不可」と切り捨てることと、新しいもので子どもが安全に笑うことは、一本の線でつながっている。壊すことも、守ることのうちなのだ。私は今日も、誰もいない公園で、なくなった遊具の跡地の、平らすぎる芝を見ている。撤去も、安全のうちなのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。