核は強い。「動かないことが、船を傷める」という一行と、それを支える具体物——ビルジポンプ、指で弾いて確かめるロープの張り、寒い朝のセルの音、三月の試運転での答え合わせ。ここだけで一本立つ。問題は、書き手がその強い核を信用せず、両端を既製の叙情で挟み、最後に「これは船長の仕事だ」と自分で解説して回収していることだ。とりわけ惜しいのは、動かない船の整備という、ほとんど誰も書いたことのない題材を持っていながら、肝心のディテールがしばしば概念のまま放置されていること。職業エッセイは、職業の手つきが具体でないと、その職業を知らない人が書いたように見える。
「雪化粧をした湖はしんと静まりかえって、観光客でにぎわった夏が嘘のようだ。」
「雪化粧」「しんと静まりかえって」「夏が嘘のよう」。冬の湖の安い既製品を三つ重ねて、情景を調達しています。二十八回この冬を見てきた船長なら、出てくるのは「雪化粧」ではなく、桟橋に張った薄氷の色か、客のいない湖に響く自分のセルの音か、誰もいない遊歩道に積もって誰の足跡もない雪のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「動かない船を守るのも、また船長の仕事なのだ。客を乗せて湖を六周する季節だけが船長の仕事ではない。」
このエッセイの主題を、エッセイ自身が主題文として書いてしまっています。「動かない船を守るのも船長の仕事だ」は、本文がビルジとロープと試運転で既に立証したことの、ただの言い直しです。読者が自分で受け取るべき結論を、作者が先回りして配ってしまう。とくに「客を乗せて湖を六周する季節だけが」は、デビュー作の「六周」を自分で引いて余韻を演出する仕草で、自己模倣の匂いがする。
「動かないことが船を傷めるのは、人と同じなのかもしれない。」
これは書いてはいけない一行です。「動かないことが、船を傷める」という観察は、それ自体で十分に人のことも照らしている。読者がふと自分のことを思うその一歩を、作者が「人と同じ」と先に言ってしまえば、観察は教訓に格下げされる。しかも「かもしれない」の留保つき。船の話だけをしてください。人の話は、読者が勝手にやります。
「この加減は、たぶん体でしか覚えられないものなのだろう。」「人は休んでいるのだと思うのかもしれない。」「私はそのことを、二十八回繰り返してきたのだと思う。」
二十八年ロープを締めてきた人間が、ロープの加減を「たぶん」「のだろう」で語るのは奇妙です。彼は加減を知っている。知っているからこそ「低い鈍い音がすればちょうどいい」と断言できたはずで、その同じ口が次の行で「たぶん体でしか」と逃げる。断言を避けているのは怯えた若手ではなく、言い切りを恐れる作者です。職人の回想は、できることについては断定で書く。
「夏のあいだに擦れたところ、錆の浮いたところを、一冬かけて少しずつ直す。」
「擦れたところ」「錆の浮いたところ」は概念であって観察ではない。実際に一冬塗ってきた人間なら、具体が一つ出るはずです——舷側のどこが毎年いちばん擦れるのか(桟橋に当たる右舷の喫水線か)、塗料の缶を寒い倉庫で温めてから使うのか、刷毛が冬の寒さで固くなるのか。塗装の「補修」と書いて済ませた瞬間、この作者は塗っていないことがばれる。職業の質感は、固有名と手順からしか出ません。
「今年は結氷するだろうか、と空を見上げる。」
せっかく「結氷する年は、氷が船体を挟んで押すから、なお気が抜けない」という鋭い一行を出したのに、その直後に「結氷するだろうか、と空を見上げる」という絵葉書で締めてしまう。結氷を心配する船長が見上げるのは空(情緒)ではなく、氷を気にするなら水際のはずだし、やることは見上げることではなく、船体まわりの氷を割るか、フェンダーを増やすか、具体的な備えのはずです。観察を出した直後に情緒で薄めるのは、いちばんもったいない。
「動かさない季節だからこそできる仕事がある。」
この一文は、農家の冬にも、職人の閑散期にも、そのまま置ける汎用の標語です。トキワダイゴである必然がない。言いたいことは直前の塗装の具体がすでに運んでいるのだから、この標語は丸ごと削れる。抽象の要約を一つ足すたびに、その前に置いた具体の値打ちが下がります。
残すべきは四つ。来ないでくれと思っても来るビルジ、指で弾いて鈍い音を探すロープ、誰も聞かない冬のエンジンの定期始動、そして三月の試運転の最初の音で一冬の答え合わせをする朝。削るべきは、「雪化粧の湖」の書き割り、「人と同じ」の擬人化、留保語尾、最終段の主題解説と「だからこそできる仕事がある」式の標語。改稿では、塗装をどこか一箇所の固有名(毎年擦れる右舷の喫水線、など)に絞って手順で書き、結末は試運転のセルの音一つで終えてください。意味は音が運ぶ。解説が運ぶのではない。