トコロアズミ(51歳・活字鋳造職人29年)
活版印刷が静かなブームになって、ふたたびこの鋳造所に注文が戻ってきた。だが戻ってきた仕事の主力は、本でも招待状でもなく、名刺だった。一枚の名刺に組む活字は、たいてい二行か三行。名前と、肩書きと、連絡先。突きつめれば、一人の人間の一行のために、私は活字を組んでいる。
見積もりは、まず在庫の確認から始まる。よくある姓ならいい。だが珍しい字が来ると、私は活字ケースの前に立って、その一字があるかどうかを先に調べる。先日は「鰐淵」という方の注文だった。「鰐」の五号があるかどうか。魚へんの大きな字が、よく使う字の枡から遠い、奥の狭い枡に一本だけ残っていた。在庫が一本なら、組めるのは一枚分の版だけだ。見積もりの紙に数字を書く前に、私は枡の底を指で探っている。
注文には、たいてい「味」がついてくる。いちばん多いのが「凹みを強めに」だ。活版の凹凸を、わざと深く出してほしいという。だが本来、活版というのは凹ませないのが上手い刷りだった。紙に活字の高さの分だけそっと触れて、インクだけを置いていく。凹みは、印圧をかけすぎた未熟な刷りの跡だ。それを今のお客は、わざわざ注文する。私は「凹みを強めに」という一行を、自分の手の動きに翻訳する。印圧を上げ、紙を選び、本来は失敗と呼んでいた領域へ、注意深く近づいていく。
名刺の注文は、人生の節目に寄り添っている。転職、独立、定年後の名乗り。とりわけ独立の名刺は、刷る前から分かる。肩書きの欄が、会社名ではなく、自分の名前の屋号になっている。「○○事務所 代表」。理由は聞かない。客の事情に立ち入るのは、この仕事の作法ではない。だが、想像はする。この人は、勤めをやめたのだろう。あるいは、やめさせられたのかもしれない。その一行を、なぜわざわざ活版で刷りたいのか。私は黙って、その名前の活字を拾う。
組版のステッキを左手に持ち、活字を一本ずつ拾って並べる。名刺の一行は、文選というより、設計だ。文字の大きさをどうするか。名前を大きく、肩書きを小さく。あるいは、すべて同じ号数で、淡々と。余白をどれだけ取るか。一行を、紙のどこに置くか。たった一行でも、その人がこれからどう名乗っていきたいかが、置き方に出る。私は何種類か組んでみて、いちばん落ち着くところを探す。一行を置くというのは、その人の立ち位置を置くということだ。
独立する人の名刺は、たいてい名前を真ん中より少し上に置く。下に余白を残すと、これから何かが書き加わるように見えるからだ。定年後の名乗りの人は、逆に、真ん中に静かに置きたがる。もう書き加わるものはない、という顔をしている。私はそういうことを、口には出さない。ただ余白の取り方で、その違いに応えているのだと思う。一行をどこに置くかは、たぶん、その人の時間をどこに置くかなのかもしれない。
刷り上がると、束になって出てくる。私はいちばん上の一枚を取り、指の腹で表面を撫でる。凹みの加減、インクの乗り、一行の傾き。指が引っかからずに、すっと滑れば、刷りは生きている。名前の一字が、わずかにかすれていないか。最初の一枚で、その束全部の出来が分かる。良ければ、残りは確かめずに包む。この、最初の一枚を確かめる指の動きだけは、二十九年、変わっていない。
名刺は、人がいちばん最初に差し出す一行だ。会って、名乗って、渡す。受け取った相手は、たいていすぐ仕舞う。一秒も見ないかもしれない。それでも、その一秒のために、私は珍しい姓の在庫を探し、凹みの加減を翻訳し、余白を設計する。名前というのは、その人の全部だ。たった一行に、その全部が乗っている。だから私は、一行を、おろそかにできない。
結局のところ、一行のための活字を組むことが、私の仕事なのだ。本の何百ページではなく、たった一行。名前と肩書き。だがその一行は、世界にただ一人のための一行だ。人は人生の節目に、なぜか活版を選びにくる。デジタルでいくらでも刷れる時代に、わざわざ重い鉛の活字で、自分の名を刻みにくる。その理由を、私は聞かない。聞かないけれど、刷り上がった束の最初の一枚を撫でるとき、私はいつも、少しだけその人のことを想っている。文字に重さがあるなら、名前にも、きっと重さがある。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。