核は強い。「つながっていた小口が切り離されて、はじめてページがめくれる」——断裁前の本は開けない、断裁されてはじめて「めくれる物」になる、という観察は、この書き手にしか書けない一点だ。両手ボタンが「刃は人の指など紙と同じに落とす」という事実の上に立っているという指摘も鋭い。問題は、その核を書き手が信用していないことだ。雨と匂いで場面を立ち上げ、留保語尾で逃げ、最後は「産声」という借り物の比喩で全部を説明して回収してしまう。版係の三作目で、トミナガはまた最終段の自己解説に戻ってきている。
「窓の外には雨が降っていて、工場には紙とインキの匂いが静かに満ちていた。」
雨、匂い、静けさ。「初めて『ママ』と書いた日」のレビューで一度叩かれたはずの三点セットが、そのまま戻ってきている。しかもこの稿の主役は「音」だ。冒頭で立てるべきは視覚や匂いの情景ではなく、棟ごしに腹へ響いてくるあの音のはずだ。雰囲気を先に塗ってから本題に入る癖が抜けていない。匂いを書くなら、断裁屑の紙粉が鼻にくる乾いた匂いを書くべきで、それは雨ではない。
「終わりの音のようでいて、本にとってはいちばんの始まりの音——断裁の音は、本の産声なのだ。」
これが最大の事故だ。「終わりに見えて実は始まり」という反転、そこへ「産声」という生命の比喩。生成文がいちばん好む二段構えで、どの工程エッセイにも貼れる。しかもこの書き手は冒頭で「いちばん『終わり』の音だ」と自分で言っている。その手触りある断定を、末尾でわざわざ甘い比喩に上書きして台無しにしている。断裁が紙の塊を本に変えるという事実は、すでに本文の動作が運んでいる。比喩で言い直した瞬間、観察が標語に落ちる。「産声」は消すこと。
「たぶん、それでいいのだろう。」「気づかれないことが、たぶんこの仕事の本分なのだと思う。」
「たぶん」「のだろう」「と思う」。一稿の終盤がこの保険でできている。コンマ五ミリを詰めるか足すかを決め、刃の研ぎ周期を管理する人間が、自分の仕事の本分を「たぶん」で語るのはおかしい。これは現場の謙虚さではなく、断言を避ける作者の逃げだ。前作「重版の、版(第二稿)」では「気のせいで済ませない仕事を、三十三年やってきた」と断定できていた。後退している。
「細く長い帯が、断裁機の下に積もっていく。回収して、束ねて、再生に回す。」
断裁屑の段落が、いちばん概念的だ。「細く長い帯」「積もっていく」は、断裁機を見たことのない人間でも書ける一般像である。実際に屑を扱った手なら、天地の屑と小口の屑では幅も量も違うこと、化粧裁ちの落としは数ミリの細さで紙粉が舞うこと、回収箱が午後にはいっぱいになること——どれか一つの具体が出るはずだ。「束見本と照らして断裁幅を合わせる」も、束見本を実際に指で挟んで束を測る手の動作がなく、用語の説明で止まっている。
「その瞬間に立ち会うたびに、私は少し胸が熱くなる。」
「胸が熱くなる」と書いた瞬間、読者の胸は冷える。感情は書き手が宣言するものではなく、動作と事実が読者の側に起こすものだ。直前の「刃が一度落ちるたびに、紙の塊が本に変わっていく」で十分すぎるほど効いている。そこへ感情の説明を足すのは、効いている薬の上に砂糖をかけるようなものだ。削れば強くなる。
「天、地、小口。上、下、めくる側の順で、三方を断ち落とす。」
順序を断言しているが、現場の手つきが見えない。三方断裁機は天と地を同時に落としてから小口を断つ機種が多く、「天、地、小口」と一刀ずつ数える書き方は、実物より説明用の図解に近い。さらに致命的なのは、断裁の基準は「くわえ」や見当——刷りと折りの基準辺——から取るという論理が抜けていることだ。どの辺を基準に当てて、どの順で刃を入れるか。そこに版係らしさが宿るはずなのに、語順だけが先に決まっている。職業の論理が書けていないと、順序がただの暗記に見える。
「本になる紙と、屑になる紙は、もとは同じ一枚だった。」
美しい一文に見えて、これは断裁でなくてもいい。打ち抜き加工でも、製麺でも、木取りでも成り立つ「歩留まりの叙情」だ。トミナガにしか書けない形に落とすなら、屑になるのは決まって小口側の数ミリで、そこには本文の文字がぎりぎりまで迫っている——切り落とされる帯の裏には、断ち切られたノンブルや裁ちトンボが乗っている、という固有の事実まで踏み込むべきだ。一般論で止まると、誰の文でもなくなる。
残すべきは三つ。断裁前の本は小口がつながっていて開けない/断裁されてはじめて「めくれる物」になる、という反転の事実。両手ボタンが「刃は紙と指を同じに落とす」という事実の上に立つこと。読者が触れる小口の断面に、研ぎ周期もコンマ五ミリの調整も誰の両手も入っているのに気づかれない、という終い方。削るべきは、雨と匂いの冒頭、「産声」の比喩、留保語尾、「胸が熱くなる」の感情宣言。改稿では、屑を実際に扱う手の動作を一つ、断裁の基準辺の論理を一行入れて、最後は比喩ではなく「めくる」という動作で閉じること。意味は刃が運ぶ。書き手が運ぶのではない。