核は強い。半秒の窓を待って揺れる船から梯子へ跳び移る「移乗」、風ではなく波高一・五メートルで仕事が止まること、陸なら数年もつボルトが一年で赤茶けて増し締めのレンチが滑ること、ナセルの屋根のヘリ吊り上げ区画、そして陸に降りてよろけたこと。この五点はこの書き手にしか書けない。問題は、書き手がその五点を信用せず、「海の男のロマン」で入口を飾り、留保語尾で逃げ、最終段で「潮と風の二重」と主題を直叙して全部を解説してしまっていることだ。職業の手つきが効いている箇所と、借り物の叙情で水増しした箇所の落差が大きい。
「男なら一度は海に出てみたいと思うものだろう。広い海原に並ぶ白い塔を初めて船から見たとき、私の胸は確かに高鳴った。」
この導入は、トオミネリツでなくても書ける。「男なら一度は海に」「胸が高鳴る」は、海洋ドキュメンタリーの判で押したナレーションであって、十五年塔を登った人間の目ではない。本文の核——半秒の移乗の窓、滑るレンチ——を持っている書き手が、なぜ入口だけ観光客の感想から始めるのか。最初の塔で「足が笑った」あの具体に比べて、ここは空疎です。
「思うものだろう。」「言ってもいいだろう。」「想像もつかない壁だった。」
移乗の半秒を体で計っている人間が、地の文では「〜だろう」と逃げている。とくに「海の塔は塩に舐められている、と言ってもいいだろう」の留保は不要で、現にレンチが滑るのを見ている当人が、なぜ比喩の責任から後ずさりするのか。前作の「混じっていた、とだけ書く」の潔さがここにはない。断定できる人物に断定させていない、作者の保険です。
「波高一・五メートル。それを超えると、移乗の作業は中止だ。」
基準値そのものは良い具体だが、これは安全マニュアルの数字であって、まだ体の経験になっていない。一・五メートルのうねりとは、船首がどこまで上下し、梯子の桟が何秒に一度どこまで来るのか。中止が出た朝、港の詰所で何をして待つのか。前作で「回りすぎは音の高さでわかる」と書けた耳が、ここでは数字を読み上げているだけです。基準は、跳べなかった朝の身体で書けるはずだ。
「使う日が来ないことを願う備えだ。」「孤立しているということを、私たちは常にどこかで意識している。」
「願う」「常にどこかで意識している」は、心情の汎用ラベルです。この書き手の強みは、屋根の吊り上げ区画という物を見ていること。ならば、その区画をどう点検するのか——年に一度ロープの受け金具に錆がないか確かめるのか、訓練で実際に吊られたことがあるのか——を書けば、孤立は説明せずとも立つ。意識している、と書いた瞬間に、意識の中身が消えています。
「機械室に入ってしまえば、やる作業は陸とほとんど同じだ。」/「海では、風に加えて、潮と波が相手になる。」
陸と海の対比は本作の背骨だが、同じ対比を抽象語で繰り返すたびに鈍る。「風だけを相手に」「潮と波が相手に」は要約であって、場面ではない。一つの具体——たとえば、陸では平気だったボルトの増し締めが、塩で固着した海では同じトルクで頭を舐める、という一点——に対比を担わせれば、説明文は要らない。
「潮と風、その二重の相手と向き合うことこそが、洋上の現場なのだ。」「風力のメンテナンスとは、結局、自然と向き合い続ける仕事なのだと、海に出て改めて思い知らされた。」
これは完全に解説です。「揺れない地面の上で、私の体だけがまだ揺れていた」という最後の身体——これがすでに「二重の相手」を全部言っている。にもかかわらず、その前に主題を抽象文で先取りしてしまうので、せっかくの着地の値打ちが下がる。「自然と向き合い続ける仕事」は、どの一次産業のエッセイにも貼れる汎用シールで、洋上である必然がない。主題文の段ごと削るべきです。
「海の上で眠る夜の、あの所在のなさ。」
宿泊船の核は良い——揺れる食堂、ベッドでも続く上下動、陸の揺れない布団の記憶。それだけで十分なのに、「所在のなさ」という名詞でまとめてしまう。所在のなさとは、具体的に何をしている時間か。眠れずに天井のどこを見ていたか、隣の寝床のいびきか、船体が軋む音か。情緒の名詞は、見た物の代わりにはならない。
残すべきは五つ。半秒の窓を待つ移乗、波高一・五メートルで断たれる足、一年で赤茶けて滑るボルト、屋根のヘリ吊り上げ区画、そして陸でよろけた体。削るべきは、「海の男のロマン」の入口、「〜だろう」の留保、ヘリ段の「願い」、最終段の「潮と風の二重」「自然と向き合う仕事」という主題解説。改稿では、波高の基準を跳べなかった朝の身体で書き、陸と海の対比は固着したボルト一本に担わせ、終わりは揺れない地面の一点で止めること。意味は、よろけた体が運ぶ。説明が運ぶのではない。