ツカモトハルオ(63歳・ピアノ調律師40年)
処分の決まったピアノに、最後の調律を頼む家がある。買取業者がもう来ることになっていて、来週には運び出される。それでも、引き取られる前に一度、音を合わせてほしいと言う。誰も弾かないのに、である。合理で考えれば、これほど無意味な仕事はない。明日捨てる器に、わざわざ水を張るようなものだ。それでも私は、断ったことがない。
そういう家には、たいてい査定票が置いてある。買取業者の出した紙だ。型番と製造年、それから値段が書いてある。古いアップライトなら、引き取り無料、と書いてあることもある。値段の欄が空白で、運送費がこちら持ち、という紙もある。依頼主はその紙をテーブルの端に伏せて置く。見られたくないのだろう。私も見なかったことにする。それが礼儀というものだと思う。
ピアノの脚には、たいていキャスターがついている。動かすためのものだ。だが家庭のピアノのキャスターは、置かれたその日から一度も回っていないことが多い。床に食い込み、埃で固まり、もう車輪の役を忘れている。来週、運送業者がこれを無理に動かすのだろう。私はキャスターを見るたびに、この子は四十年、一度も歩かなかったのだな、と思ってしまう。動かないための車輪、というものが、この世にはある。
最後の調律は、なぜか、いつもより丁寧になる。自分でもわからない。どうせ来週には運び出され、たぶん解体されるか、海の向こうに送られるかするピアノだ。私の合わせた四四〇など、誰の耳にも届かない。それなのに、私はうなりの最後の一筋まで、しつこく追ってしまう。普段なら見送るような、ごくわずかな濁りまで、丁寧に拾ってしまうのだ。手が、勝手に丁寧になる。
最後に合わせるのは、中央のラだ。四四〇ヘルツ。音叉と同じ高さ。私はいつも、ラを最後に残す。基準の音だからだ。そのラを合わせ終えて、ハンマーをピンから外すと、調律は終わる。部屋がしんとする。うなりの消えたピアノは、静かになるのではなく、まっすぐになる。来週には運び出される器が、いま、いちばんまっすぐな姿で、そこに立っている。
終わりました、と告げると、依頼主はたいてい、一音だけ鳴らす。和音ではない。曲でもない。人差し指で、ぽーん、と一つだけ。不思議なことに、弾ける人ほど、何も鳴らさずに蓋を閉める。弾けない人ほど、一音だけ鳴らす。その一音が、私の合わせたばかりの音の上で、まっすぐに立つ。鳴らした人は、たいてい何も言わない。ただ、その音が消えるまで、じっと聞いている。
ピアノには、蓋の鍵がある。鍵盤を覆う蓋に、小さな鍵穴があって、鍵もどこかにあるはずなのだ。だが、その鍵を使う人を、私は四十年で一人も見たことがない。みな、蓋は手で閉める。鍵はどこかの引き出しで眠ったまま、ピアノと一緒に運ばれていく。最後の調律のあと、依頼主は一音を聞き終えて、静かに蓋を閉める。鍵は、かけない。かけられるのに、誰もかけない蓋というものが、この世にはある。
来週、運送業者が来る。毛布でピアノをくるみ、養生テープを巻き、固まったキャスターを無理に剥がして、運び出していく。あとには、床にカーペットの凹みが四つ残る。脚の数だけ、四つ。掃除機をかけても、その凹みはしばらく消えない。依頼主は、その四つの凹みを、しばらく見るのだろう。物のあった場所は、物がなくなって初めて、かたちになる。
最後の調律は、別れの儀式なのだ。もう弾かないとわかっていても、人は、別れる前にもう一度だけ、その声をまっすぐにしてやりたいのだ。音を合わせ、一音を鳴らし、蓋を閉める。それで終わる。考えてみれば、人を見送るのも、これと同じなのかもしれない。私はただ、その儀式の、調律師という役を務めているだけなのだろう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。