核は強い。「活字、要るか」の電話、鉛の重さ、減った字に出る前の店の仕事、そして自分の棚の空き段に他所の三号が収まる手つき。この物の手触りだけで一本立つ。問題は、書き手がその手触りを信用せず、終盤で「遺志を継ぐ」「鉛は循環する」「引き継がれていく」と三度も同じことを抽象語で言い直し、自分で主題を回収してしまっていることだ。引き取りは別れの儀式ではなく、棚の在庫を埋める実務である。実務の手つきが書けている段ほど良く、感傷の言葉が混じった段ほど嘘になる。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「松井さんの店から来た字が、私の店で、最初の一枚を押す。活字は、こうして引き継がれていくのだ。」
前の一文で十分すぎるほど効いているのに、後ろにわざわざ「活字は、こうして引き継がれていくのだ」と判子を押している。これはどの道具継承エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ツヅラフミである必然がない。「最初の一枚を押す」で止めれば、読者が「引き継がれた」と思う。その思う仕事を、作者が奪っている。
「松井さんは、長年の道具を私に託してくれた。その遺志を継ぐつもりで、私は一本ずつ、丁寧に棚へ移していった。」
「遺志を継ぐ」は、消えゆく業界の感傷を安く調達する常套句だ。そもそも松井さんは死んでいない、店をたたんだだけだ。「遺志」は言葉の事故であると同時に、この段全体が情緒の水増しになっている。実際にやったのは、要る級数を選んで棚に入れる選別である。「託してくれた」「丁寧に」も同様で、人物より先に「いい話」の雰囲気が立っている。この段はまるごと要らない。
「長くやっていると、こういうことは手が先に判断してくれるのかもしれない。」/「これもまた巡りの一部なのだと思った。」/「それが、引き取るということなのだろう。」
肩の丸みを指でなぞって現役か否かを分ける——これは断定の作業だ。三十四年やった人間が「判断してくれるのかもしれない」と濁すのは、怯えではなく、断言を避ける作者の保険である。「なのだろう」「なのだと思った」は核を弱め、せっかくの手つきを自信のない独白に変えてしまう。語り手は迷っていない。迷っているのは文体だけだ。
「思った以上に重い。鉛とアンチモンと錫の合金は、見た目の何倍も腕にくる。」
合金の組成を知識として並べているが、観察になっていない。重さを書くなら、ケース一段が何キロで腕にどう来たか、軽トラの荷台が後ろにどれだけ沈んだか、運び終えた翌日に腰のどこが残ったか——身体の側の数字が要る。「見た目の何倍」も逃げで、職人なら一段の目方を手の感覚で言えるはずだ。組成の豆知識は、現場にいなかった人ほど書きたがる。
「鉛は循環する素材なのだ。一度すり減った字も、溶けて、別の文字になって、どこかの棚に戻っていく。」
ここが一番惜しい。「もう刷れない字は、地金に戻す。鋳造所に送れば、溶かして、また新しい活字に鋳直される」——この実務の二文ですでに循環は描けている。なのに直後に「鉛は循環する素材なのだ」と概念で言い直し、続く「別の店の『春』になるのかもしれない」で詩に逃げる。鋳直しの事実を淡々と置けば、循環という語は一度も使わずに循環が立つ。主題を主題文で書いたら、それはエッセイではなく要約だ。
「前の持ち主の三十年が、字の肩の丸みに残っているのを、私は黙って見ていた。」
「三十年が残っているのを黙って見ていた」は、古道具屋の回想にも、古本屋の回想にも、そのまま置ける。この段の核は前段にある——「金」「円」「領収」が丸い、だから伝票屋だとわかる、という読み取りの具体だ。その鋭い観察の後に、「三十年を黙って見ていた」という汎用の余韻を足すと、せっかくの具体が情緒で薄まる。黙って見るな、もう一つ字を読め。
「松井さんの店には三号が一揃いあって、それがありがたかった。欠けていた級数の穴が、これで埋まる。」
「一揃い」と書くなら、活字は字ごとに本数が違うはずで、よく使う字は前の店でも減っている。三号が「一揃い」そっくり使えることは、実務上まずない。引き取りの肝は、欠けを埋める字と、向こうも減らしていて使えない字の重なりを、自分の棚と照合する作業にある。「穴が、これで埋まる」と一行で片づけず、どの字が埋まり、どの字は結局買い足しになったのか——その照合こそ、この職業にしか書けない場面だ。
残すべきは四つ。「活字、要るか」の素っ気ない電話、ケース一段の重さ(身体で測った数字で)、「金」「円」「領収」の丸みから前の店の仕事を読む場面、そして自分の棚の空き段に他所の三号が収まり、次の名刺の最初の一画を押す瞬間。削るべきは、「遺志を継ぐ」の段まるごと、留保語尾、「鉛は循環する素材なのだ」の直叙、最終行の「引き継がれていくのだ」。鋳直しは事実だけ置けば循環が立つ。意味は動作と物が運ぶ。説明が運ぶのではない。