核は強い。「この交差点の青は長い。小学校の通学路だからだ」という先輩の一言、それを聞いて秒数に意図があると気づく瞬間、停電の交差点に出てきた警察官の手信号。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、夜の交差点の光の滲みで場面を着色し、最終段で「設計図」だの「私をいまの私にしてくれた」だのと全部を解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、秒数を実数で扱うはずの保守員を語り手にしながら、肝心のところで数字が情緒に化けていること。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「あの箱の中の数字を知ってしまったことが、私をいまの私にしてくれたのだと思う。今夜もどこかの交差点で、誰も見ていない赤が、律儀に青に変わっている。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ウキタジュンペイである必然がない。最後を「律儀に青に変わっている」という情景の引きで締めるのも、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「夜の交差点に立つと、信号の光がアスファルトに滲んで、町は静かに息をしているように見える。」
滲む光、静けさ、息をする町。生成テキストが「詩的な夜景」を安く調達するときの常套句そのものです。十三年バケットに乗って灯器の前まで上がってきた人間が見るのは、滲んだ光ではなく、LED ユニットの中の結露か、レンズの内側にたまった虫の死骸か、灯器の傾きのはずです。雰囲気が人物より先に立っており、誰の目でもない目で書かれている。
「あの規則正しさが、私はずっと好きだった気がする。」「なんだか胸が温かくなるような気がしたものだった。」「機械は、人の代わりに立っていたのだと、そのとき思った。」
秒数を実数で扱う職業の人間が、自分の感情にだけ「気がする」「ような」を連発するのは不自然です。これは登場人物の心理ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「好きだった気がする」は、好きなのかどうか作者自身が決めかねている証拠で、ここは「好きだった」で足りる。感情に保険をかけると、職業の正確さまで嘘くさくなる。
「扉を開けると、配線と基板と、設定の並んだ盤面があった。」
「配線と基板と、設定の並んだ盤面」は、機械を外から眺めた人の言葉です。実際に箱を開けた人間なら、開けた瞬間の熱気か、夏場のファンの音か、端子に貼られた手書きのラベルの色あせか、交差点名と系統番号の札か、何か一つ具体が出るはずです。「青が何秒、黄が何秒、赤が何秒」と書きながら、肝心の最初の交差点の数字が後段の「四十二秒」まで出てこないのも、観察の順序が逆になっている。
「信号機というのは、いわば町の動きの設計図なのだと思う。」
これは完全に解説文です。「この交差点の青は長い。小学校の通学路だからだ」が、すでに「設計図」を一つの具体で言い切っている。それを抽象語で言い直すたびに、先輩の一言の値打ちが下がる。「設計図」という比喩を地の文で名指した時点で、読者が自分でたどり着く快楽を奪っています。エッセイの主題を主題文として書いたら、それは要約です。
「私たち保守員は、その設計図が今日も正しく描かれ続けるように、縁の下で機械を直している。誰も見ていないけれど、誰もが従っている。」
「縁の下で機械を直している」「誰も見ていないけれど、誰もが従っている」は、保守・点検・インフラ系の職業エッセイのどれにでも貼れる紋切り型です。冒頭で「誰もが従い、誰も見ていない機械を直す人」と一度言ったことを、末尾でもう一度標語にして繰り返している。同じ自己定義を二度言うと、二度目は宣伝に聞こえる。この職業にしか書けない一文に置き換えるべきです。
「誰も来ない深夜、一台の車のためだけに赤が青に変わる。あれを見ると、なんだか胸が温かくなるような気がしたものだった。」
感応式の話は核になりうるのに、感傷で潰しています。保守員が深夜の感応式の前で本当に見るのは、「胸が温かくなる」情緒ではなく、ループコイルが正しく車を踏んだか、検知から青までの遅延が設定通りか、という動作確認のはずです。職業の目で見れば見るほど、その交差点が一台のために働くという事実は勝手に効いてくる。情緒を足すと、かえって事実が薄まる。手つきが本物でないと、エッセイ全体が嘘に見えます。
残すべきは三つ。先輩の「この交差点の青は長い。小学校の通学路だからだ」、それを聞いて秒数が人の手のものに変わる瞬間、そして停電の交差点に出てきた警察官の手信号。削るべきは、滲む光の夜景、感情の留保語尾、「設計図」の直叙、縁の下の力持ちの標語、感応式に足した情緒。改稿では、制御機の箱を開けた瞬間に具体物(熱気・ファンの音・手書きのラベル・系統番号の札のいずれか)を一つだけ置き、最初の交差点の青の秒数を最初に出すこと。意味は数字と動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。