核は強い。瓦屋と鬼師の間に立つ伝書役という立ち位置、経の巻と家紋という格式の文法、割れた鬼を施主と相談して庭に据える習わし、銅線で縛って漆喰で固める据え付け、型物と手捻りの「迷いの跡」。この職人にしか書けない事実が、ちゃんと積んである。問題は、書き手がそれを信用しきれず、魔除けのロマンを安く調達し、語尾を濁し、最後に主題を自分の口で説明して回収してしまっていることだ。鬼瓦は棟の端で、自分のことを一言も説明しない。エッセイも、そう据えるべきだった。
「誰も近くで見ない造形に、職人の心は宿るのだ。私はそう思いながら、漆喰のこてを置く。」
主題を主題文として書いて、自分で判子を押して終わっています。「誰も見ない造形に職人の心が宿る」は、職人エッセイの末尾ならどこにでも貼れる汎用シールで、ウキョウイチカである必然がない。しかも直前で、据えるときの私と下ろす誰かだけが近くで見る、という事実をもう書いている。事実が言い終えていることを、抽象語でもう一度言い直すたびに、事実の値打ちが下がる。こてを置く動作で締めたい気持ちは分かるが、その前の一文が余韻を殺している。
「魔除けとして家を睨んできたものには、それなりの宿りがあるような気がするからだ。」「長く一つの家を見てきた顔には、捨てるに忍びない何かがあるのだろう。」
「宿り」「忍びない何か」。鬼瓦と来れば魔除け、魔除けと来れば魂が宿る、という最も安い連想で叙情を仕入れています。この職人が本当に下ろした鬼を扱うなら、出てくるのは「気がする」ではなく、手の感触のはずだ——額の割れ口の鋭さ、思ったより軽い土の重さ、裏に詰まった六十年分の埃。施主が植え込みに据えると決めた、という事実だけで宿りは十分に立つ。職人に魂を語らせると、とたんに観光地の説明板になる。
「ような気がするからだ」「のだろう」「いくらか覚えていなければならなかった」
銅線を結わえ、漆喰で際を止める手は、寸法と固定で生きている。落ちれば人に当たると自分で書いた職人が、肝心のところで「気がする」「のだろう」と逃げるのは、怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに格式の文法は、覚えている/覚えていないのどちらかであって、「いくらか覚えていなければならなかった」では、知っているのか知らないのか分からない。知っているなら、違い鷹の羽がどの格かを一言で言い切ればいい。
「型物は左右がきれいに揃いすぎていて、手捻りは、眉のあたりや牙の一本に、わずかな迷いの跡が残っている。」
ここは核に近い。だが「眉のあたりや牙の一本に」という「あたり」「や」が、見ていないことを白状している。実際に手捻りの鬼を屋根で受け取った人間なら、迷いの跡は一つに絞れるはずだ——左の眉だけ毛筋の彫りが深い、とか、牙の左右で反りが違う、とか。複数を曖昧に並べるのは、観察ではなく概念です。型物の見分けも、「揃いすぎ」より、型抜きの合わせ目(バリ)が残る、のほうが手の言葉になる。
「機能と縁起が、一枚の瓦の表と裏のように、分かちがたく重なっている。屋根の端には、その両方が要るのだ。」「銅線が骨で、漆喰が肉だ。」
前者は冒頭から主題を要約として宣言してしまっている。納めであり魔除けでもある、と事実を二つ並べれば、読者が勝手に「表と裏のようだ」と思う。その思考を作者が先に奪っている。「銅線が骨で、漆喰が肉だ」は一見うまいが、比喩で締める手癖で、結わえる手順そのものより比喩のほうが前に出てしまった。動作を書けば比喩はいらない。
「鬼瓦の仕事は、二人の職人の手のあいだに、橋のように架かっている。」「新しい鬼を据えるのは、神経を使う仕事だ。」
「二人の職人の手のあいだに橋のように架かる」は、伝書役を扱う文章ならどの業種にも置ける。「神経を使う仕事だ」は、その段落で何をするかを書く前の前置きで、ない方が締まる。寸法を測り、鬼師に紙で渡し、抜けた寸法を確かめる——その動作の連なりが「橋」を勝手に立たせる。橋という言葉は要らない。
残すべきは五つ。伝書役という立ち位置、経の巻と家紋という格式の文法を言い切ること、割れた鬼を施主が庭に据えると決めた事実、銅線で結わえて漆喰で止める据え付けの動作、そして型物と手捻りを分ける一つの具体的な差。削るべきは、魔除けの宿りのロマン、留保語尾、表と裏・骨と肉・橋の比喩、そして最終段の「職人の心が宿る」という主題解説。改稿では、下ろした鬼は手で触れた感触で書き、見分けは迷いの跡を一つに絞り、結びは比喩を置かず、誰も見ない顔という事実を据えたまま、こてを置いて下りること。意味は、説明ではなく、据える動作が運ぶ。