宇野正一(八十二)は、昭和四十三年に入居してから五十八年、同じ部屋に住んだ。妻の芳枝は先に亡くなった。今日、団地の最後の一軒として部屋を出る。娘の真弓(五十四)が、遠くから手伝いに来ている。行き先は坂の下の団地で、戻り入居の棟ができるまでの二年。
午後三時。和室。家具はもうない。畳に、日に焼けていない四角い跡。押入れの襖に、剥がしかけの養生テープ。真弓が天袋から最後の箱を下ろす。階段から、業者の声。
業者の声冷蔵庫、出まーす。踊り場、回しまーす
真弓お父さん、これ。天袋の奥
宇野うん
真弓「住まいのしおり」。昭和四十三年。公団
宇野入るとき、もらった
真弓これ、燃えるほう? 資源?
宇野……
真弓(めくって)「上下左右のお宅に、音や水でご迷惑をかけないように」。ガス風呂の点け方まで書いてある。種火
宇野お母さんが、それを見て点けた。最初の晩
真弓お父さんは
宇野見てた
真弓手伝わないで
宇野マッチが、湿ってた
真弓、笑う。しおりを資源の袋に入れかけて、父の紙袋に入れる。宇野は何も言わない。
業者の声(階段の下から)宇野さーん、和室、もうないですかー
真弓(廊下へ)あとは手で持っていきます
真弓が和室に戻ると、宇野は部屋の真ん中に立って天井を見ている。押入れ寄りの天井板に、茶色い輪じみ。その端に一枚だけ、色の新しい板がはまっている。
真弓それ、結局、張り替えなかったね
宇野断った
真弓開けたとこだけ新しいの、変なの
宇野公団が、そこだけ替えた
真弓お母さん、なんか名前つけてたでしょう。これに
宇野つけてた
真弓なんだっけ
宇野……
真弓言わないんだ
宇野上から来た
真弓知ってる。上のお風呂でしょう。私はもう家を出てたけど、お母さんから電話で聞いた。平成の、はじめ
宇野三年の、八月
真弓上、女の子がいたよね。名前、なんだっけ
宇野忘れた
真弓お母さんがつけたほうは覚えてて、そっちは忘れたの
宇野……
真弓、携帯を出して天井に向ける。
真弓撮るよ
宇野うん
シャッターの音。上の階からは、何の音もしない。
午後五時。台所。URの若い職員が、チェックシートを挟んだ板を持っている。
職員残置物、なし。ガスは閉栓済み。電気は、電力会社さんに止めのご連絡は
真弓しました。今日までで
職員お部屋は取り壊しになりますので、原状回復は結構です
真弓よかった。五十八年分
職員(和室をのぞいて)あ、天井
宇野平成三年
職員漏水ですか
宇野上から
職員建て替えで、管理事務所の書類をいま全部、箱に詰めて本社に送ってて。当時の修繕の記録も、残ってるかもしれませんね
宇野残ってなくていい
職員……はい
真弓お父さん
職員では、鍵を。お預かりします
宇野、鍵を職員の手のひらに一本ずつ置く。職員、数えて袋に入れる。
職員明かりは、最後に消していかれますか
宇野消す
五時半を過ぎて、宇野は和室の明かりのひもを二回引く。豆電球になり、それから消える。
五時四十分過ぎ。詰所で警備員に挨拶をすませ、宇野と真弓は坂を下りはじめる。歩道の欅の下に、カメラを持った若い女と、四十代の女。
若い女の声久住さん、もう暗いので。撮れました
もう一人の声うん
宇野、足を止める。真弓が一歩先で振り返る。宇野は振り返らずに、また歩き出す。
真弓お父さん
宇野うん
真弓さっきの。残ってなくていい、って、なに
宇野……
真弓お母さんの、あれと関係あるの
宇野向こうの部屋、窓の寸法が違う
真弓え?
宇野カーテンが、合わない。ここのを持ってきたけど
真弓……明日、買いに行こう。私、帰るの夕方だから
宇野うん
二人、坂を下りる。紙袋が、ときどき宇野の膝に当たる。