素材そのものは悪くない。失職後の停滞と、思わぬ縁から次の仕事へつながる、という骨格ははっきりしている。ただし第一稿の段階では、感情も展開も「既視感のある型」に収まりすぎていて、読後に人物の固有性が残らない。要するに、出来事はあるのに体温がなく、きれいにまとめようとする手つきが先に立っている。
「そういえば、うちの会社じゃないんだけどさ」
ここで読者はほぼ即座に「その縁が就職につながる」と読めてしまう。しかも直後に「点が線に繋がった」と作者自身が種明かしをしてしまうので、偶然の驚きではなく予定調和の回収に見える。落ちる先が見えている場面ほど、説明ではなく手触りで引っぱるべきだが、その余白がない。
「子どもたちの笑い声は変わらず家を満たしていたが、自分だけが置き去りにされたような感覚があった。」
「笑い声が家を満たす」「自分だけが置き去り」という対比は、もっともらしいが借り物くさい。感情をそれらしく見せるための既成の叙情装置で、マークという人物の固有の知覚になっていない。きれいだが、きれいすぎて信用が落ちる文だ。
「顔と名前はうろ覚えだが」「年に一度、いや、二度会うかどうかという顔ぶれだ」
露骨な「と思う」「かもしれない」は少ないが、その代わりに認識の輪郭をぼかす言い回しが続く。結果として、慎重というより観察の責任を引き受けていない印象になる。断言すべきところまで曖昧にすると、文章全体の腰が引けて見える。
「テレビのニュースが遠くで流れていた。」「芝生の上を小さな体で追いかけるボールを目で追う。」
どちらも“場面らしさ”はあるが、具体の像がない。何のニュースか、どんな芝生か、息子は速いのか遅いのか、親たちは何色の簡易椅子に座っているのか、そういう一つの実景がないまま汎用的な映像だけが置かれている。見たことを書いているのでなく、見たことがありそうな情景を配置している感じが強い。
「彼らの世界は、マークがこれまで見てきた世界と同じだった。」
こういう総括を途中で入れると、読者が自分で意味づけする余地が消える。しかも最後も「マークが立つ場所は確かに動いていた」と再度まとめるので、全編が要約文の連打になる。エッセイでは回収は一度でいいし、その一度も半歩足りないくらいでちょうどいい。
「点が線に繋がった。」「知らなかった扉。」「二つの隔たりを越えて」
比喩が一つなら効くが、ここは象徴の押し売りになっている。線、扉、隔たりと、意味を持ちそうな装置が続けて出てきて、しかも全部同じ方向を向いているので鈍い。読者に「これは転機の場面ですよ」と肩を叩きすぎだ。
「日常は変わらず続いていく。」「焦る気持ちと、どうしようもない諦めが、胸の中で交互に顔を出した。」
この種の文は意味が通る分だけ危険で、どんな失業エッセイ、移住エッセイ、中年の転機エッセイにもそのまま入ってしまう。読者は理解できるが、記憶できない。マークにしか言えない文へ削り込まない限り、文章の主語は誰でもよくなる。
「彼らとの距離は変わらなかったが、マークが立つ場所は確かに動いていた。」
いかにも“いい話として着地させる”結びで、本人の痛みも屈辱も薄めてしまっている。しかもこの締めは作者の人生観の印鑑であって、今回の出来事から必然的に出た言葉ではない。赦しや成長で終える前に、もっとみっともなさか偶然の生々しさを残すべきだ。
残すべき核は、「役に立つのは濃い人脈ではなく、生活圏の薄いつながりだった」という逆説だけでいい。改稿では、冒頭の内面要約を削り、サッカー場の空気、父親の言いよどみ、マークがその場でどう反応したかを具体で立てるべきだ。最後も成功談に整えず、「なぜあの人があの瞬間に口にしたのか分からない」くらいの不確かさを残した方が、エッセイとしては強くなる。