ヤブサメチカゲ(40歳・活魚運搬の運転手18年)
魚を降ろすと、荷台が軽くなる。生け簀に放して、伝票にサインをもらって、トラックに戻る。行きは命を積み、帰りは水しか積んでいない。十八年走って言うが、いちばん危ないのが、この帰り道だ。
降ろしたあと、まず水槽を洗う。前の魚のぬめりと匂いを、ホースで流す。マダイの水槽にそのままブリを入れると、ブリが壁ぎわをぐるぐる回って落ち着かない。魚は前の魚の名残を嗅ぎ分ける。だから壁を手のひらでこすり、指の腹を鼻に当てて、まだアンモニアの匂いがするうちはもう一度こする。匂いが指から消えて、はじめて次を積める。
洗いながら携帯を見る。帰り荷の電話を待っているからだ。同じ方向の漁港にいい魚が揚がれば、帰りも活魚を積める。空で帰れば、ガソリンと高速代がそっくり持ち出しになる。だから私は、洗い終えても水槽の水を抜かずに張ったまま、蛇口の前にしゃがんで携帯の画面を見ている。水を抜けば、また張る手間がかかる。抜かないというのは、まだ積む気でいるということだ。
帰り荷を積むなら、水を入れ替える。古い水は岸壁の排水口へ落とし、新しいのを汲む。漁港なら岸壁の海水をポンプで上げるが、そのまま入れると油膜とゴミが浮くから、汲み口に網のフィルターをかませて、一槽ぶん千二百リットルを十分ほどかけて入れる。内陸の取引先からの帰りは、まずトラックステーションの水道で真水を半分だけ積んでおき、積み込む港で海水を足して塩を合わせる。海の魚に水道水をそのまま当てれば弱る。東名と中央道沿いの、水が汲める蛇口の場所だけは、頭の地図に入っている。
店ごとに、生け簀の水が違う。手帳に書いてある。「N料理店 十六度 塩分三・四 活きの細い魚を嫌う」「M市場 十八度 塩分三・二 詰め込みに強い」。比重計を生け簀に浮かべて測った数字だ。長く通う店は、その数字に運ぶ水のほうを寄せておく。着いてから急に水を合わせると、その差で魚がばてるからだ。取引先の数だけ、私にしか読めない数字が並んでいる。
帰りの空荷は、音で分かる。満載のときは、魚と水の重みで水面が落ち着いていて、カーブでも水槽はどっしり動かない。空荷で水だけだと、ブレーキのたびに水が前へ寄って、後ろでたぷんと壁を打つ。その反動でほんの一拍、車の頭が沈む。満載なら来ないその一拍で、私はいま空で帰っているのを、ハンドルの手で確かめている。
帰りこそ、ポンプとチラーの音に耳を澄ます。魚がいなければ酸素も水温も神経質に保たなくていい。それでも空荷のあいだはポンプを回し、音を聞く。先月、行きには気づかなかったチラーの唸りに、かちかちという別の音が混じっていた。次に命を積む前に整備に出して、軸受けを替えてもらった。故障は前ぶれの音から始まる。荷のないうちに聞いておく。
そして眠気だ。行きは後ろで魚が生きているから、ミラーを見るたび気が張る。帰りは、その糸が切れる。三年前の冬、伊勢湾岸のまっすぐな高架で、私は一度、目をつぶったまま橋脚の継ぎ目を二つ越えた。継ぎ目の段差で車が跳ねて、目が覚めた。後ろには、誰もいない水だけが、たぷんと前へ寄っていた。それから帰りは、降ろした港で必ず冷たい水で顔を洗ってから走る。
水だけを積んで、空の水槽の音を聞きながら、インターを降りる。洗って、水を汲んで、音を聞いて、顔を洗う。バックミラーには、誰もいない水面が映っている。