ヤブウチソラ(28歳・ロープウェイの運転係6年)
動かす日のことばかり書いてきたけれど、運転係には、動かさないと決める日がある。風が基準を超えれば止める。基準は十五メートル。屋上の風速計がそれを越えたら、迷わない。線はあらかじめ引いてあって、その日の気分で動かせないようにしてある。線の手前で迷えば、人は甘いほうへ寄る。せっかく来てくれた、もう少しなら——その声に負けないために、数字は私の外側に置いてある。
運休が決まると、入口に貼り紙を出す。「本日、強風のため終日運休いたします」。それから払い戻しの窓口を開ける。買ったばかりの券を、また財布へしまってもらう。あるおばあさんが、券を受け取って「また来るわ、風の弱い日に」と言った。怒る人より、その一言のほうが、長く残る。動かすどの作業より、券を返す数分が、私にはこたえる。
難しいのは、午後だ。朝は穏やかでも、昼すぎから山頂側の風が立ってくる日がある。そういう日、私たちは早めに「もう上げない」と決める。上げたら、降ろさなければならないからだ。山頂にお客さまを残したまま風が強まれば、その人たちは山の上から動けなくなる。上げないという判断は、いつも、降ろせるかどうかの計算とひとつになっている。最終の何便かを、まだ風が立つ前に、こちらから先に止める。
悔しがるお客さまには、「安全のためですので」とは言わない。正しいけれど、壁のように響くからだ。代わりに数字で話す。「いま山頂は二十二メートル、人が立っていられない風です。ゴンドラは横に、これくらい振られます」。手で揺れ幅を示すと、たいていの人は、ああ、という顔をして帰っていく。風を神の機嫌だと言えば、誰も納得しない。風はメートルで来る。だから私も、メートルで返す。
運休の日は、点検の日だ。動かない日は、ふだん触れない場所に触れる日でもある。ゴンドラを一台ずつ点検台に呼び込んで、握索装置——ロープをつかむ部品——を開けて見る。動いている日、その箱は閉じたまま路線を回り続けている。止まった日にしか、中は見えない。外で山の風が鳴っているあいだ、私たちは無言で、油の匂いのする金属をのぞき込んでいる。動かさない日に、いちばん索道に近づく。
麓の駅と山頂の駅では、風がまるで違う。麓では木の葉も動かないのに、山頂では立っていられない日がある。麓の感覚で「これくらいなら」と思ってはいけない。風はいつも上から来る。運休の日、山頂駅は無人になる。誰もいないデッキの上で、風速計のプロペラだけが回り続け、二十二、二十四、と、見る者のいない数字を送ってくる。その数字を、麓の計器盤で私だけが読んでいる。
年に数回、朝から全便運休になる日がある。一往復もしない索道の前で、私たちは一日を過ごす。お客さまの来ない駅は、ただ静かだ。貼り紙、開けたままの握索の箱、無人の山頂、誰も見ていない風速計。動かさない一日に並ぶのは、それだけだ。けれど、その静けさの中にいると、この乗り物が、いくつの「止める」の上に立っているのかが、目の前にそろって見えてくる。
運休明けの朝は、試運転を長くやる。無人のゴンドラを一往復させて、揺れを見て、握索を確かめ、それでもう一往復させる。二度、何ごともなく戻ってきて、風速計が四・二で落ち着いて、それから初めて、最初の券を売る窓口を開ける。風の落ちた山に、空のゴンドラがゆっくり昇っていく。私は計器盤の数字ではなく、その箱の揺れを見ている。今日は、上げてよかった。