核は強い。表より一本多い鉗子を、叱らずに「もう一回、数えてみよう」と数えさせて、新人自身に抜かせる場面。そして「この仕事、誰にも気づかれないですね」への返事。この二つだけで一本立つ。問題は、書き手がその核を信用せず、二十年前の自分を何度も持ち出して情緒で包み、最終段で主題を二度三度と直叙してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、数を数える人を語り手にしながら、肝心のダブルチェックの数の運用が具体に欠けること。職業エッセイは、職業の手つきが甘いと全部が作り物に見える。
「その静かな誇りを胸に、私は今日もこの子と並んで、出した数と戻った数を数える。四月の地下に、また一人、数を数える人が生まれていく。」
育成譚の判子を自分で押して終わっています。「また一人、数を数える人が生まれていく」は、どの師弟エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ヤエガシモネである必然がない。「静かな誇りを胸に」と心情を名指しして締めるのは、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めている。
「窓のない地下の部屋に、まだ折り目のついた制服を着た若い人が立っている。」
「窓のない地下」「折り目のついた制服」。新人を描くときに真っ先に出てくる安い記号です。この語り手が本当に二十年その部屋にいたなら、新人について最初に目に入るのは制服の折り目ではなく、ラックに器械を並べる手つき——向きのそろわなさ、刃物を恐がって持つ指——のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「胸がふさがるのも無理はないのかもしれない。」「いつのまにか体に染み込んでいくものなのだと思う。」「ずっと考えてきた気がする。」
数を数える人は、合っているか合っていないかを断定で決める職業です。一本多ければ多いと言い、抜く。その人物の回想が「〜かもしれない」「〜のだと思う」「〜気がする」で薄められているのは、新人の不安の描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに自分の二十年について「気がする」と言うのは、二十年やった人間の口調ではありません。
「読み合わせていくと、鉗子が一本、表より多い。似た鉗子を取り違えていたのだ。」
ここが一本の山場なのに、観察が抜けています。「似た鉗子を取り違えた」は概念であって、現場ではない。第3段でせっかく「先端の角度が違う」「こっちはギザが細かい」と見分けを教えているのだから、取り違えた二本が具体的に何と何で、どちらの先端を新人が見落としたのかが書けるはずです。多かったのは表より一本でも、本当はどの鉗子が抜けてどれが二本入っていたのか。数が合わない中身を書かないと、ダブルチェックがただの帳尻合わせに見えます。
「一本、二本、と声に出すうちに、いつかその一本が誰かの体だと、言わなくてもわかる日が来る。」
「言わなくてもわかる」と言いながら、作者が言ってしまっています。一本の重みを「事故の事例ではなく日々の照合で体に入れる」というこのエッセイの芯は正しい。ならば、その芯は新人に数えさせる動作だけで運ぶべきで、語り手が「誰かの体だとわかる日が来る」と先回りして意味づけた瞬間に、照合で体に入るはずのものが、ただの教訓になってしまう。意味は手が運ぶもので、ナレーションが運ぶものではありません。
「気づかれないことが、うまくいっている証拠なんだよ」/「気づかれないことが、証拠なのだ。」/「私たちは、思い出されないために働いている。」
新人への返事として一度言った「気づかれないことが、うまくいっている証拠なんだよ」で、すべて言い切れています。それを次の段の地の文で「証拠なのだ」と作者がもう一度なぞり、さらに「思い出されないために働いている」と三度目の言い換えをする。同じことを抽象語で言い直すたびに、新人に向けた最初の一言の値打ちが下がっていく。エッセイの主題を主題文として三回書いたら、それはもう要約です。返事は一度きりでいい。
「手が先に覚えて、頭はあとからついてくる。」
この一文は、料理人の修業譚にも、職人の弟子入りにも、そのまま置けます。中央材料室でなくても成り立つ警句は、人物を消す。この語り手にしか言えない形——たとえば、新人の手がどの器械でいつ向きを覚えたか——でなければ、ヤエガシモネは「いい先輩」一般に溶けてしまいます。
残すべきは三つ。毎日いっしょに数を数えさせること、表より一本多い鉗子を「もう一回、数えてみよう」と新人自身に抜かせる場面、そして「気づかれないことが、うまくいっている証拠なんだよ」という一度きりの返事。削るべきは、折り目のついた制服の書き割り、留保語尾、最終段で「証拠」を反復する主題解説、そして「手が先に覚えて」式の汎用警句。改稿では、取り違えた鉗子を具体的な二本として書いて職業の手つきを立て、返事は一度で止めて、最終段の自己解説を捨ててください。一本多い、と数が告げる。語り手が告げるのではない。