ヤエザワミドリ(41歳・茅葺き職人19年)
屋根を葺くより前に、屋根を見る仕事がある。見積もりだ。直すべきかどうか、直すならどこまでか、いくらかかるか。葺き場に上がる前のこの仕事を、私は十九年のうちのいつからか、葺くこと以上に重く感じるようになった。屋根は、登る前にもう半分しゃべっている。
はじめは遠目で見る。車を停めて、敷地の外から屋根全体を眺める。北側の斜面に苔が厚く乗っていれば、そこは日が当たらず乾きにくい。棟——屋根のいちばん上の線——が中央でわずかに沈んでいれば、下地の木が傷んでいる。軒の先が一直線でなく、波打って見えれば、束の締まりが緩んでいる。近づく前に分かる傷みがある。屋根は遠くから見たほうが、かえって正直に見えるのだ。
遠目で当たりをつけたら、登る。表面の茅は、見ただけでは中まで分からない。だから手を差し込む。茅の層に指を、手のひらを、ときに肘まで入れて、湿りを確かめる。表面は陽に乾いていても、奥が濡れていることがある。逆に、表が黒ずんでいても中は生きていることもある。表面と中の傷みは、別の話だ。診断は、目だけでは足りない。屋根に手を入れて、屋根と対話するように傷みを聞き取っていく。
傷みを読んだら、判断する。全面葺き替えか、差し茅か。全部替えれば五十年持つが、金がかかる。傷んだところだけ古茅を抜いて新しい束を差せば安く済むが、寿命は短い。施主はたいてい「あと十年、持たせたい」と言う。その十年に、私は数字で答えなければならない。差し茅で足りる十年なのか、それとも差し茅ではごまかしにしかならず、いずれもっと高くつく十年なのか。屋根の声を、予算の言葉に訳すのが、この仕事なのかもしれない。
同じ屋根でも、見積もりは二種類ある。文化財の屋根と、ふつうの民家の屋根だ。文化財には補助金の制度があり、寸法も工法も決まりがある。書類が分厚く、申請から交付まで時間がかかる。一方、民家は自費だ。施主が自分の財布から出す。同じ三十センチの厚みでも、補助金で葺く三十センチと、自費で葺く三十センチでは、施主の顔つきが違う。後者の重さを、私は書類のない見積もりのたびに感じる。
施主への説明には、言葉を選ぶ。私たちの言葉——「棟が沈んでいる」「下地が腐っている」「勾配が足りない」——は、そのままでは施主に届かない。届くのは金額だ。だから訳す。「この沈みを放っておくと、三年後には差し茅では効かなくなり、全面葺き替えで二倍かかります」。職人の目に見えているものを、施主の財布に見えるかたちに翻訳する。嘘はつかない。けれど、訳しすぎると脅しになり、訳さなければ伝わらない。その加減が、いちばん難しい。
断る現場もある。屋根に登って手を入れ、下地まで確かめて、これは茅では直せない、と分かるときがある。下地の木が腐り落ち、束を載せても支える骨がない。それはもう茅葺きの領域ではなく、家そのものの普請の話だ。「うちでは直せません」と言うのは、職人としていちばん言いたくない言葉だが、言わなければならないときがある。茅で直せる屋根と、茅では直せない屋根の境目に、線を引くのも診断の仕事だ。
見積もりの帰り道、車を停めて、もう一度屋根を振り返る。さっきまで手を入れていた屋根が、また遠目の屋根に戻っている。苔の付き方、棟の沈み、軒の波。遠くから見えていた傷みと、手で確かめた傷み。その二つが、いま私の頭の中で一枚の屋根に重なっている。直すかどうかを決めるのは施主だが、何が傷んでいるかを正しく見るのは私の仕事だ。診断もまた、職人の仕事なのだ。葺くだけが、屋根を守ることではない。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。