核は確かにある。下張りから出てくる昭和の新聞、引手の座を目分量で切る一ミリ、釘を抜く順番、梅雨の生乾き。この四つは、この語り手にしか書けない。問題は、書き手がその四つを信用しきれず、「和の心」「味のある」で場面を安く立ち上げ、留保語尾で逃げ、最終段で主題を全部解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、せっかく出した昭和の新聞を「何やら時代を感じさせる」で済ませている点。表具師は紙を読む人間のはずなのに、いちばん読むべき紙を読んでいない。
「掛軸が美術なら、襖は暮らしの仕事だと言われる。和の心を支える、味のある仕事だったと思う。」
「和の心」も「味のある」も、観光パンフレットの語彙です。三十六年襖を張ってきた人間の口から出るのは、心ではなく、骨の本数か、紙の匁か、梅雨の乾きの日数のはず。「〜だと言われる」「〜だったと思う」と二重に他人事にしているのも、自分の手で触れたことを自分の言葉で言えていない証拠です。デビュー作の第二稿で一度捨てたはずの装置が、また顔を出している。
「先日の一枚からは、昭和の終わりごろの新聞が出てきた。広げてみれば、何やら時代を感じさせる紙面だった。」
これは観察ではなく、観察の概念です。実際に下張りを剥がした人間なら、見出しの一語か、相撲の星取表か、訃報欄の名前か、何か一点が残っているはずです。「時代を感じさせる」は誰でも書ける。この一枚こそ「時間の層」という主題を一行で背負える場所なのに、書き手が本当には見ていないので、ただの装飾で流れてしまっている。最大の素材を最大の取りこぼしにしている。
「めくっていく作業なのかもしれない。」「格が決まるのだろうと思う。」「たいてい大事なのだと思う。」「それもまた時の流れなのだろう。」
一ミリのずれで安っぽく見えると断言する手の持ち主が、なぜ自分の仕事の意味になると急に「〜のだろう」「〜かもしれない」と引くのか。これは謙虚さではなく、断言を避ける作者の保険です。職人の語りは手の確かさが背骨で、語尾が逃げると手まで嘘になる。デビュー作の第二稿が「本当に、指につけて舐める」と言い切って強かったことを思い出すべきです。
「襖一枚で、部屋が変わるのだ。表具とは、見えない層を積み重ねて、最後の一枚で部屋の光を変える仕事なのだと、いまでは思う。その光が、私をこの仕事に三十六年つなぎとめてきた。」
主題文を三連発で押しています。「部屋が変わるのだ」で言い、同じことを「光を変える仕事なのだと思う」で言い直し、さらに「私をこの仕事につなぎとめてきた」で成長譚の判子を押す。「私を〜してくれた/つなぎとめてきた」は、デビュー作の第一稿でも指摘した汎用シールそのものです。学習していない。施主の「ああ」という一声がすでに全部言っているのに、その値打ちを作者が解説で削っている。
「表に出ない手順のほうが、たいてい大事なのだと思う。」「乾きは表からは見えない。裏で進む。」
「裏で進む」はデビュー作の核でした。二作目でまた同じ箴言に頼ると、自己模倣になる。襖には襖の固有の裏がある——骨縛り、蓑張り、清張りという段の名前です。せっかく第2段でその語彙を出したのに、肝心の場面では使わず、「表に出ない手順」という抽象に逃げている。固有名詞を持っているのに概念で書くのは、いちばんもったいない。
「需要が減ったのは寂しいが、それもまた時の流れなのだろう。」「時代が変わっても、紙を張る手の動きは変わらない。」
依頼は「和室の減少を感傷にせず」と言っていたはずで、ここはその逆をやっている。「寂しい」「時の流れ」「手の動きは変わらない」は、衰退を語るときの定型三点セットです。本当に書くべきは、団地の襖とマンションの襖で何が物理的に違うか——枠の規格か、紙の幅か、引手の位置か。変化は手触りで書けば感傷にならない。観察があれば、寂しさは読者が勝手に持つ。
「表に見えているのは最後の一枚だけで、下にどれだけ重なっているかは、誰も見ない。」
この一文は、料理にも、文章の推敲にも、人間関係にも、そのまま貼れる人生訓です。襖でなければ書けない一文に直すなら、何枚重なっているのか数を入れる(古い襖を解いたら下張りが七枚あった、で済む)。数が入れば人生訓は消え、襖だけが残る。
残すべきは四つ。下張りから出る昭和の新聞(ただし見出しか名前を一つ)、引手の座の一ミリ、釘を抜く順番、梅雨の生乾き。削るべきは、「和の心」「味のある」、留保語尾、最終段の主題三連発、和室減少の感傷。改稿では、新聞は紙面の一語を引いて時間の層を物に語らせ、団地とマンションの違いは寸法か金物で一点だけ書くこと。「部屋が変わる」は言わず、施主の「ああ」だけ残せばいい。意味は物が運ぶ。説明が運ぶのではない。