皿が下げられても
訳せないことば #1 Sobremesa(スペイン語) 第二稿

ササキハルカ(旅行プランナー)

バルセロナ、三月、日曜日のレストラン。お客様ご夫妻と現地のご一家、合わせて七人のランチで、私は同行のプランナーとしてその席にいた。前菜の皿が下げられたあと、メインの皿はなかなか来なかった。来ないというより、来る前に会話の塊が二つ三つ挟まる進み方で、ジャモンの説明から、お母さんの祖父母の村の話、子どもの学校の話、去年の夏のこと、と話題が分岐した。その分岐の合間に、白い皿が下げられ、別の白い皿が運ばれてきた。

三時に動かない人たち

三時十分前、私はご主人に小声で次の予定を伝えた。サグラダ・ファミリアの当日券は三時半までに窓口に並ぶつもりで組んでいた。ご主人は頷いてくれて、そのうえで、ホストのお父さんに英語で席を立つ意思を伝えた。お父さんは両手を軽く挙げ、ゆっくりと首を振った。“No, no, todavía estamos en la sobremesa.”

そのあとに、彼は何も訳してくれなかった。両手の動きでもう一度、座っていなさい、と示しただけだった。私はその語の意味を知らなかった。「メサ」は前の前菜のメニュー表で見た、テーブルとか食卓のことだ、ぐらいの見当はついた。「ソブレ」がうえ、というのも、何かの看板で見た覚えがあった。テーブルのうえ。それだけでは、なぜ立ってはいけないのか、分からなかった。

分からないまま、私は椅子を引き直した。三時を過ぎ、コーヒーのカップが配られた。子どもたちはいつのまにか席を立っていて、店の奥のほうで、店員さんに何か見せてもらっていた。皿のうえには、子どもがパンの欠片で描いていた、人なのか家なのか分からない絵が、半分崩れたまま残っていた。

夜になってから調べた

ホテルに戻ったのは六時半で、夕食の予定までに少し時間があった。私はベッドのうえでスマートフォンを開き、sobremesa と打ち込んだ。最初に出てきたのは、スペイン語の辞書記事ではなく、英語のブログ記事だった。「スペイン人がランチのあと、皿を片付けず、コーヒーを淹れ、ワインを少し残し、そのまま座って話し続ける時間。一時間、ときに二時間、三時間。」

そのときは、なるほど、と思って画面を閉じた。ぐだぐだ食後の雑談か。で済ませようとした。同じ夜、夕食の席で、お客様ご夫妻と私の三人になったとき、奥様が私のほうに向いて、「あれ、なんでしたっけ、お父さんが言ってた」と聞いてきた。私は「ぐだぐだ食後の」と言いかけて、口のなかで止まった。あの場の空気は、ぐだぐだではなかった。皿が下げられても食事は続いていた。下げられて続いている、というその段差が、ぐだぐだでは説明できなかった。私は「ちょっと、訳しにくいです」と答えた。

翌週、東京で

翌週、東京の事務所に戻って、別のお客様のヒアリングのあいだに、ふとあの皿のことを思い出した。お客様は六月にマドリードに行く予定で、観光時間の組み立てを相談しに来ていた。「ランチは何時から開けておくと安全ですか」と聞かれて、私は「一時から、四時くらいまで空けてください」と答えた。お客様は怪訝な顔をした。「三時間ですか」。

その怪訝な顔のなかに、私は二週間前の自分の顔を見た気がした。三時間は長い。日本の感覚では、ランチは長くて一時間半だ。お客様は、なぜ三時間なのか、を聞いていた。私は説明にかかった。「食事のあと、皿を下げてもらってから、コーヒーで一時間くらい話す習慣があるんです」。お客様は「ああ、食後のお茶のような」と納得しかけた。私は「お茶のような」を否定したかったが、そこで否定すると、別の説明が必要になる。私は曖昧に頷いて、面談を進めた。

その日の帰り道、私は駅のホームで、お茶ではない、と思っていた。お茶は終わってからの飲み物で、食事の続きにはならない。Sobremesa は、食事が終わったあと、皿が片付かないまま続く。皿が片付かない、というのが、たぶん核なのだった。

余白では足りない

もうひとつ、半年経ってから思い当たったことがある。同僚が新婚旅行でリスボンとマドリードに行き、帰国後にお茶をしているとき、「ご飯のあと、立つに立てない感じ、面白かった」と言った。立つに立てない、という言い方が、私のなかの「余白」を一段、上書きした。

余白、と私は最初、頭のなかで翻訳しかけていた。食後の余白。だが余白は、空白で、何も入っていないことを指す。Sobremesa は、空白ではない。会話と沈黙が、皿の上に積まれていく時間で、しかも積まれていることに、座っている人たちは、はっきり気づいている。立つに立てない、という同僚の語が、その「気づいている」のほうを、たぶん拾っていた。

それでも、立つに立てない、では、まだ足りない。「立つに立てない」は、立ちたい意思を含意する。Sobremesa の最中の人たちに、立ちたい意思はない。あるとすれば、立たないでいることへの、緩い合意のほうだ。立たないでいることに、皆で同意し続けている時間、ぐらいまで言葉を伸ばすと、ようやく現場の絵に近づく。だが、その日本語は、長い。長すぎて、面談の場では使えない。

伝えるかどうか

そのお客様には、結局、Sobremesa という単語そのものを伝えなかった。「マドリードのランチは、三時間見ておいてください」とだけ言って、なぜ三時間か、は説明しなかった。理由は、ひとつには、面談の時間が押していた。もうひとつは、半端な訳語を出すと、「ぐだぐだ」「お茶」「余白」のどれかにお客様の頭のなかで固定されてしまう気がしたからだ。固定されてしまうと、現地で実物に会ったときに、お客様自身の発見が薄くなる。プランナーとしては、その発見を残しておくほうが、たぶん仕事として正しい。

正しい、と書いたが、自信があるわけではない。次に同じ質問を別のお客様から受けたら、ソブレメサとそのまま言ってしまうかもしれない。そのときに「それ何ですか」と聞かれたら、私は何と答えるだろうか。たぶん、皿が下げられても食事は続いていることがあります、と前置きして、それから少しずつ広げる。広げきれずに終わる気もする。

皿のうえの絵

あのバルセロナの店で、子どもが描いていた絵のことを、私はときどき思い出す。パンの欠片で皿のうえに線をひいて、何かのつもりで残していった、人なのか家なのか分からないかたち。お父さんが立ってはいけないと示したあと、テーブルにいた大人たちは、その絵を片付けるでも消すでもなく、しばらく放っておいた。コーヒーが配られて、ワインのグラスは三分の一くらい残っていて、誰かが何かを言うと、別の誰かが受けて、別の話に分岐していった。

その時間を呼ぶ日本語が、私の手元にはまだない。お茶でも、余白でも、ぐだぐだでもない。皿のうえの、片付かない小さな絵を、皆で気づきながら、消さずにおく時間。それを呼ぶ日本語が必要かどうかも、よく分からない。たぶん、必要になるたびに、私は「ソブレメサ」とそのまま言って、聞いてくれた人に、皿の絵の話をすることになる。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。旅行・現地事情の最新情報は、必ずご自身でも確認してください。