編集者(匿名)による第一稿への指摘。対象:訳せないことば #2(第一稿)/書き手:ササキハルカ
全体要旨
第二回は「現地に行ったら通じなかった」という発見を軸に、検証寄りに書かれており、第一回の Sobremesa とは違う角度を出せている。検証パートも、辞書アプリで二つ引いて、知人にメッセージで聞く、という具体相がある点は良い。ただし、第二回には独自の弱点がある:「現地で通じなかった」というオチが、書き手にとって都合よく出来すぎている。フィルダウス(仮)さんの登場、ガイドブックを二冊持っている準備のよさ、辞書アプリを二つ買うアフターケア——どれも検証する書き手にとって便利すぎる素材で、現場の不確かさが薄い。検証エッセイの落とし穴である「予定された結論に向けて反証材料を並べ直す」が起きている。
「ピサン・ザプラ? うーん、聞かないですね、最近は」……「あの、児童書か、教科書の話じゃないですか」
地上係員が、一往復で「現地での非流通」「児童書/教科書由来」という二つの情報をきれいに開示してくれる。これは取材としてはありがたいが、エッセイとしては、書き手の主張のマウスピース化している。実際の現地での「これ、聞いたことありますか」のやりとりは、もっと曖昧なはずだ——「うーん、聞いたことあるかも」「でも自分は使わない」「親世代は使うかも」「マレー系の友達に聞いてみないと」。第一稿はその曖昧の波をすべて削って、フィルダウスさん一人の口から、結論に必要な要素を出させている。
かつ、フィルダウス(仮)さんという表記は、人物が実在しうる印象を作るが、その人物が一回しか現れず、結論に必要な情報だけ提供して退場する点で、エッセイの装置として機能してしまっている。仮名で出すのなら、結論にとって不利な発言(「いや、たまに使いますよ」など)も含めるか、あるいはもっと退屈な世間話を一段挟んで、結論材料の偏りを薄めるべき。
準備のよさが透けて見える。
機内持ち込みのバッグから、付箋を貼ってあったページを開いた。……空港の本屋で買った薄い英語の本……帰国後、私はマレー語の辞書アプリを二つ買って……
三回連続で「資料を二つずつ用意する」運びが続く。ガイドブック日本語版+英語の本、辞書アプリ二つ、知人+ネットの記事。これは検証エッセイの典型作法で、「複数ソースで確認しました」という安心感を読者に与える。だが、現実の出張中の検証は、もっと片手落ちで進む——機内で寝てしまい、辞書を引いたのは三日後、知人に聞いたのは一週間後、結局その質問は流れた、ぐらいの非対称が普通。第一稿は、検証作法のチェックリストを順に潰しているだけに見える。
外国人向けに発見されて、現地の日常から離陸して、外国人どうしのあいだで流通している語。
強調されているこの一文が、第一稿のテーゼになっているが、フレーズの整い方がエッセイのテーゼ用に作られている。とくに「離陸して」「外国人どうしで流通」という言い回しは、書き手の旅行プランナーの語彙ではなく、メディア批評の語彙だ。プランナーが空港で立ったまま思いつく言葉ではない。
同じ内容を、もっと低い位置で書ける——たとえば「フィルダウスさんが児童書って言ったとき、ああ、自分は子ども向けの言葉を、現地の流行語のように紹介していたな、と思った」のような、書き手の足元の認識として書けば、テーゼ感は薄れる。第一稿は、プランナーが体験した語を、批評家が事後にラベリングする構造になっている。
第一回の批評と同じ指摘になるが、本作でも箇条書き並列が均整すぎる。
お茶を一杯飲むあいだ/タバコ一本ぶん/ちょっと/そんなにかからない
四つ並べて、それぞれに一行コメントを添える型。シリーズ通底の癖になりつつある。第一回ではこの並列が「答え合わせ感」と批判されたが、本作では「行為で時間を呼ぶ慣用は、日本語でも痩せている」という結論を支える論拠として並べられている分、第一回より罪は軽い。ただし、四つ目の「そんなにかからない」は時間表現の婉曲であって、行為で時間を呼ぶ慣用ではない。並列のなかで一つだけ次元が違うものを混ぜているのは、議論の精度を損ねている。
つまりこの語は、「現地で生きている語」と「外国人向けに再発見された語」のあいだのグラデーションのどこかにいて、グラデーションの位置は、世代と地域によって違う。
結論部に「グラデーション」「世代と地域」「粗くない記述は長くなる」と並ぶ。これらは「断言を避ける書き手の慎重さ」として読めるが、同時に「結論の責任を取らない」優柔不断としても読める。前段で「外国人向けに再発見された語」と強い言い方をしておきながら、結論部で「いや、グラデーションです」と引き返す。これは検証エッセイの定石だが、第一稿では引き返しすぎていて、結局この語をどう扱えばいいのかの実務的指針が宙に浮く。
プランナーの実務エッセイなのだから、「私はこう判断する」「お客様にはこう案内する」という選択を最後まで取り切ってよい。第一稿の最後の業務メモ(「お客様への紹介は慎重に」)は、その選択の一歩手前で止まっている。
名古屋行きのフライトは、結局、十七時四十分に動き出した。一時間十分、遅れた。バナナ一本では足りない。お茶を一杯飲むあいだ、でも足りない。
冒頭の遅延と、本文の単位(バナナ/お茶)を結末で重ねる、典型的な収束構造。第一回の批評でも指摘された「ブックエンド癖」の再発。きれいに閉じることで、Pisan zapra をめぐる検証の不確かさが、最後にちゃんと回収された印象になり、エッセイ全体が「うまくいった話」に見えてしまう。「バナナでは足りない」というフレーズの軽さも、検証パートの重みと不釣り合い。
第二稿では、フライトが何時に動き出したかの時刻情報も、バナナお茶の韻も、両方落とすほうが、検証のあとの宙ぶらりんが正直に出る。
本稿のテーマ(「訳せないことば」のなかには、現地で実体の薄いものも混じっている)は、シリーズ全体に対する自己批評として機能しうる、価値の高い切り口だ。問題は、その切り口を検証パートで証明する手つきが、エッセイの作法として整いすぎている点に尽きる。
第二稿に向けて: