編集者(匿名)による第一稿への指摘。対象:訳せないことば #3(第一稿)/書き手:ササキハルカ
全体要旨
「情景寄り」と書き手自身が宣言した第三回。女将の三回の玄関行きを軸にする発想は良く、Sobremesa の長時間性、Pisan zapra の語の真贋検証、と異なる第三の角度(行為の観察)が立っている。雪の旅館と Iktsuarpok を重ねるアイデアもよく、書き手のシリーズ内での運用力は安定してきた。問題は、その安定が、第一稿・第二稿で批判された「定型的なきれいさ」を、別の形で再生産している点だ:今回は「三回」という数の魔法と、「事務的/ロマンチック」の二項対比に乗っかりすぎている。
女将さんは、十七時に一回、玄関に出ていった。……十七時十五分にもう一回……十七時二十五分、私が地図に目を落としていたあいだに、彼女はもう一度
「三回」という回数の整え方が、見たままの記録というより、書き手の構成意図のほうから組まれている。十七時、十五分、二十五分、という五分単位の刻みも整いすぎ。実際に三回見た可能性はあるが、エッセイのなかに「ぴったり三回」を置く運びは、第一回の「時計を二回見た」と同型の対比導入である。シリーズで「数を揃えた対比導入」を使い続けると、書き手の癖になる。
第二稿では、たとえば「四回見た気もするし、二回かもしれない、たぶん三回」のような、記憶の不正確さを残すか、あるいは回数を数えずに「何度も玄関に出た」と書くほうが、現場感が出る。「三回」という数で読者の頭にリズムを作ろうとする手つきは、書き手のサービスでありすぎる。
内履きのままで二歩出て……今度はサンダルに履き替えていた。
三回のうち一回目と二回目で、女将の足元が変化する。一回目は急いで、二回目は雪を意識して、というディテールは旨いが、これも「三回の進行を読者に見せる」ための小道具として、配置が良すぎる。三回目で何を履いていたかは書かれていない。書き手の関心が三回目の足元にはなかったのに、一回目と二回目に「履物の変化」という対比を仕込んでいる、というのは、観察ではなく、構成だ。
第一回で五並列、第二回で四並列を批判された箇条書きが、本作では本文中に埋め込まれて、別の形で続いている。
気もそぞろ、待ち遠しい、待ちくたびれる、居ても立ってもいられない。
そして後段で「気が気じゃない/そわそわする」を追加する。前半四つを試して落とし、後半に二つ追加して、最終的に「そわそわする」が惜しい、と落としていく。これは第一回の Sobremesa パートで批判された「五並列の優等生さ」と同じ構造を、二段階に分けて再演している。並列が箇条書きから本文に隠れただけで、書き手の癖は変わっていない。
第二稿では、最初から女将の動きを「動詞ひとつ」で言い当てようとせず、「日本語にはこれを一語にする習慣がない、と気づくまでの時間」を、語順や間で表現するほうが、対象に近づく。「並べてみた、どれも違う、もう少し並べてみた、まだ違う」という思考のリズムは、四つ並べて一つずつ落とすチェックリストとは違う。
本作の中央のテーゼがここに来る。
つまり Iktsuarpok には、二つの可能性がある。ひとつ:……英語圏のロマンチックな紹介によって、ある種の感情ことばに育て直された。ふたつ:……元から、客の到着への期待と不安を含む、含意のある語だった。
このきれいな二項対立は、議論を進めるための補助線として有用だが、その後の「女将さんの動きはロマンチックの側ではなく事務の側にある」という結論まで、補助線がそのままレールになっている。実際には、女将さんの動きは「事務」と一語で言い切るには、もう少し情緒が混じっていたはず(だから書き手も最初に「気もそぞろ」を浮かべた)。「事務 vs ロマンチック」の二択は、書き手が結論に到達するためのフレーミングで、現場の女将さんの動きを正しく分節していない。
第二稿では、二項対比をいったん解除して、女将さんの動きが「事務でもロマンチックでもなく、地元の坂と看板の見えにくさという、もっと地理的な事実から立ち上がっている」というふうに、地理に降ろしたほうが、結論が地に着く。第一稿後半の「看板が見えにくい」というディテールは良いので、それを早く出して、二項対比を消すほうがいい。
動詞のかたちで「外に出る/戻る/また外に出る」を一括にする語が、日本語にはない。
このテーゼは強調ボックスにこそ入っていないが、本文中で太字強調されている。「日本語にない」を「日本語に散らばっている」と言い換える発想は、第一回の「社会の時間割」テーゼより一段地に近づいたものの、まだ少しメタ批評の語彙だ。「散らばっている」は、地理的なメタファー(場所)と、時間的なメタファー(時間順に出てくる)を兼ねていて、何を指しているのか曖昧。
本作の素材は、もっと「動詞の不在」の方向に集中して書ける。日本語は、女将さんの動きを「玄関に出ていく」「戻ってくる」と二つの動詞に分けて書く。Iktsuarpok は、その二つを一つの動詞で言う。ここをまっすぐ書けば、「散らばっている」のような曖昧な比喩は要らない。
これは、Sobremesa の回で書いたこととは、少し違う。……第二回で書いた Pisan zapra と、似た事情だ。
第三回として、過去回への参照が二度入る。シリーズ運営として読者の便宜にはなるが、本作単体として読むと、過去回を読んでいない読者を一段締め出す。とくに後半の「意味が伝わらない/伝わるが一語にできない」の二分類は、Sobremesa との対比で立ち上がっており、本作だけでは効きが弱い。
シリーズもの一回完結を維持するなら、過去回への参照は削るか、本文中で軽く触れるだけにとどめる(「以前、別の語で考えたとき」程度に抽象化する)ほうが、各回の独立性が保たれる。
下りる途中で振り返ると、女将さんはまた、玄関に立っていた。今日来る別の客のために、四回目の確認をしていたのだと思う。
「三回」を見て書いた話の最後に、「四回目」を見せる。これは余韻装置として効くが、効きすぎる。「四回目の確認をしていたのだと思う」という推測の述語は、書き手のセンチメンタリズムの混入を許してしまう。実際には、女将さんは別の用事で玄関に立っていたかもしれない。第二稿では、この最終段全部を削るか、「振り返らずに坂を下りた」ぐらいに抑えて、余韻を作ろうとしないほうがいい。
第三回は、シリーズ三作目として安定感が出てきた一方、その安定が、書き手の構成癖の固定化として現れている。三回の数、足元の小道具、四・六並列の日本語検証、二項対比のテーゼ、結末の余韻装置——これらは個別には機能するが、一緒に並ぶと「シリーズ用エンジン」がはっきり輪郭を持ってしまう。
第二稿に向けて:
シリーズ三作目で、書き手のエンジン音が大きくなりすぎないよう、少し騒音を下げる回として書き直す。