女将は三回、玄関を見に行った
訳せないことば #3 Iktsuarpok(イヌイット系語)

ササキハルカ(旅行プランナー)

函館の少し北、海沿いの小さな旅館だった。二月の夕方、雪はまだ降っていた。三組のお客様の手配で、私は先着で着いた。残り二組は、少し離れた空港から、一台のレンタカーに乗り合わせて来る予定で、到着予定は十七時三十分。私はチェックインを済ませて、ロビーのストーブのそばで、地図を広げていた。

三回

女将さんは、十七時に一回、玄関に出ていった。雪の積もった石畳のうえを、内履きのままで二歩出て、外を見て、すぐに戻ってきた。「まだ、来てないですね」と小声で言って、私のお茶を取り替えてくれた。十七時十五分にもう一回、玄関に立った。今度はサンダルに履き替えていた。「道、迷ってないといいんですけど」。十七時二十五分、私が地図に目を落としていたあいだに、彼女はもう一度、玄関に出ていた。雪の足音で気づいた。

私は、その三回を見ていた。見ていた、というより、目に入っていた。ロビーの外の暗さが少しずつ増していくのが、そのたびに玄関の戸の動きで分かった。女将さんは、戻ってくるたび、私のほうに向いて、少しだけ頭を下げて、また奥に入っていった。

気もそぞろ

その時間、私の頭のなかには、いくつかの日本語が浮かんでいた。気もそぞろ、待ち遠しい、待ちくたびれる、居ても立ってもいられない。どれも、女将さんの三回には、少しずつ合っていなかった。

気もそぞろ、は、別のことに集中できないことを言うが、女将さんは、ロビーのお茶を私のために取り替える、という「いまの仕事」をちゃんとやっていた。気がそぞろではなかった。待ち遠しい、は、子どもがクリスマスを待つときの語感で、女将さんの動きには、その軽さがなかった。待ちくたびれる、は、もう少し時間が経って、疲れた段階の言葉だ。三十分の遅れでは、まだそこには行かない。居ても立ってもいられない、は、強すぎる。女将さんは、ちゃんと座っていた。座っていて、座ったまま立ち上がっていた。

女将さんがやっていたのは、座っていて、座ったまま立ち上がる、という動きだった。

あとで知った語

その日の夜、お客様たちが無事に着いて(十七時四十分、レンタカーが旅館の駐車場に入った瞬間、女将さんはすでに玄関にいた)、夕食が済んで、私は部屋でスマートフォンを開いた。前から少し気になっていた語があった。Iktsuarpok。イヌイット系のことば、と日本のサイトに書いてあった。「客が来るのを待って、外を見に行く感じ」。

そのページには、続けて、こんな注釈が書かれていた。「直訳は『来ているかと、外を見に行くこと』。一語で動詞として活用される。日本語に一語で訳すのは難しい」。私は、女将さんの三回の動きを思い出した。たぶん、あれだった。

もうひとつ、別のページには、別の注釈があった。「この語は、英語圏の『翻訳できない言葉』のリストでよく紹介されるが、イヌイット系言語の専門家のなかには『そこまでロマンチックな含意は本来ない、ふつうに「外を見に行く」と言っているだけ』と指摘する声もある」。読んで、私は少し、苦笑した。第二回で書いた Pisan zapra と、似た事情だ。

二つの可能性

つまり Iktsuarpok には、二つの可能性がある。ひとつ:これは「来ているかと、外を見に行く」という、わりと事務的な語で、英語圏のロマンチックな紹介によって、ある種の感情ことばに育て直された。ふたつ:これは元から、客の到着への期待と不安を含む、含意のある語だった。

私には、どちらが正しいかを判断する力はない。ただ、女将さんの三回を、Iktsuarpok という語のなかに置き直したとき、ロマンチックな含意のほうではなく、事務的な含意のほうのほうが、女将さんの動きには合っていると思った。彼女は、ロマンチックに待っていなかった。事務として、雪のなかで道を間違えていないかを心配して、外に出ていた。心配は、現実の心配だった。空港から旅館までの道は、たしかに雪のとき分かりにくい。

ことばがロマンチックに紹介されると、その語の指す行為まで、ロマンチックに見えてしまう。でも、行為そのものは、たぶん、もっと地味で、現実的な不安に近い。Iktsuarpok と女将さんを並べると、その地味さの側に、ことばの足が下りてくる。

日本語に「ない」のではなく「散らばっている」

戻ってもう一度、日本語の似た言い方を考えた。気もそぞろ、待ち遠しい、待ちくたびれる、居ても立ってもいられない。それから、もうふたつ加えた。気が気じゃない、と、そわそわする。気が気じゃない、は心配が前面に出る。そわそわする、は心配と期待が両方混じる。女将さんの動きに近いのは、そわそわする、のほうだった。だが、そわそわする、は座って震える、という別のニュアンスも含んでいて、玄関に出ていく動きの方向性はない。

こうやって日本語を並べていくと、Iktsuarpok の指す状態を、日本語は「ない」のではなく、いくつかの単語に「散らばっている」のだと分かる。心配(気が気じゃない)、座っていられない感じ(居ても立ってもいられない)、立ち上がって外に向かう動き(?)、戻ってまた座る(?)、という四つくらいの要素のうち、最後の二つを一語で持つ動詞が、日本語にはない。動詞のかたちで「外に出る/戻る/また外に出る」を一括にする語が、日本語にはない

日本語に必要かどうか

必要かどうかは、別の話だ。女将さんの三回は、日本語に名前がなくても、ちゃんと女将さんの仕事として遂行されていた。私はそれを、隣のロビーで、お茶を二杯飲みながら、目に入れていた。名前がなくても、行為は伝わる。ことばが「ない」ことが、その行為の存在を消すわけではない。

これは、Sobremesa の回で書いたこととは、少し違う。Sobremesa は、日本語に名前がないせいで、現地で同じ行為が行われたときに、日本語話者が「これは何の時間か」と分からない、という問題があった。Iktsuarpok の場合は、日本語話者でも、女将さんがやっている動きが「客の到着を案じて外を見ている」だと分かる。意味は伝わっている。一語で名指せない、というだけだ。

つまり、訳せないことばのなかには、「意味が伝わらない」ものと、「一語にできないだけで、意味は伝わる」ものとがある。Iktsuarpok は、後者に近い。

三回の、四回目

翌朝、私は宿を出るとき、女将さんに「昨日、三回、玄関に出てらっしゃいましたよね」と言った。彼女は少し驚いた顔をして、それから、「気がついてらしたんですね」と笑った。「雪の日、地元の人でも迷うんですよ。あの坂、海から上がってくると、看板が見えにくくて」。

看板が見えにくい、という具体が、ロマンチックなIktsuarpokの紹介には絶対に出てこない。出てこないが、女将さんの動きは、その看板の見えにくさからまっすぐ立ち上がっていた。私は「ありがとうございました」と頭を下げて、雪の坂を下りた。下りる途中で振り返ると、女将さんはまた、玄関に立っていた。今日来る別の客のために、四回目の確認をしていたのだと思う。

——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。

辛口レビュー→
第二稿(改稿版)→
← 前:#2 聞いたことない、と三人が言った(Pisan zapra)
次:#4 ガイドが英語で「コモレビ」と言った(Komorebi)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。Iktsuarpok のニュアンスについての記述は、英語圏での紹介と一部の専門家の指摘を踏まえたもので、イヌイット諸語の網羅的な記述ではありません。