ササキハルカ(旅行プランナー)
函館の少し北、海沿いの旅館。二月の夕方で、雪はまだ降っていた。私は先に着いていて、ロビーのストーブの前で、地図を広げていた。残りのお客様は、空港からレンタカーで、もう少しで着く予定だった。
女将さんは、何度か玄関に出ていた。何度、と書こうとして、私はその回数を覚えていない。ロビーの戸の動き、雪を踏む足音、戻ってきて私のお茶を取り替えてくれる気配——それが何度かあった。たぶん三度より多くて、五度より少ない。あいだの時間も、十分のときもあったし、五分のときもあった。
そのあいだ、私の頭のなかで、いくつかの日本語が出ては消えた。気もそぞろ、と思った瞬間、女将さんは私のお茶をきっちり取り替えていて、気はそぞろではなかった。待ち遠しい、と思いかけて、彼女の動きにあった切実さに、その語の軽さは合わなかった。居ても立ってもいられない、まで行くと強すぎた。彼女はちゃんと座っていて、座ったまま立ち上がっていた。
そわそわする、と思いついて、これは惜しかった。だが「そわそわ」は、座って震える方向の語で、玄関に出ていく動きの方向性は持っていない。日本語の動きにくいところは、たぶんそこだった。立ち上がって、外に出て、戻ってくる、という動詞のセットを、一語で名指す習慣がない。
夕食のあと、お客様たちが部屋に戻ってから、私は布団のうえでスマートフォンを開いた。Iktsuarpok。イヌイット系の語、と日本のサイトに書いてあった。「客が来ているか、外を見に行くこと」。一語の動詞らしい。
同じ語について、別のページに別の注記があった。「英語圏の『翻訳できない言葉』のリストに頻出するが、専門家のなかには、そこまで情緒的な含意は本来ない、ふつうに『外を見に行く』と言っているだけ、と指摘する声もある」。前回の Pisan zapra と似たような事情のようだった。私は、ふうん、と思って、画面を閉じた。
翌朝、私は宿を出るときに、女将さんに少しだけ聞いた。「昨日、玄関に何度か出てらっしゃいましたよね」。彼女は驚いた顔をして、それから、笑った。「気がついてらしたんですか。あの坂、雪のときは、海から上がってくると看板が見えにくくて、地元の人でも一回間違えるんですよ」。
女将さんが玄関に出ていたのは、看板の見えにくい坂のため、だった。
看板が見えにくい、という具体は、英語圏で紹介される Iktsuarpok の説明には絶対に出てこない。出てこないが、女将さんの動きは、その看板の見えにくさからまっすぐ立ち上がっていた。彼女は「客の到着を期待して、心が落ち着かなくなって外を見る」のではなく、「あの坂で道を間違える人が多いので、念のため確認に出る」のだった。前者と後者は、エッセイの文脈ではほぼ同じものに見えるが、女将さんの実感のなかでは、違う。前者は感情の言葉で、後者は地理の言葉だ。
私の気づいた範囲では、Iktsuarpok と紹介される語は、感情のラベルとして輸出される。地理は脱落する。脱落した先で、語はロマンチックになり、現代の人間にも当てはまる「待ちわびるあの感じ」のように、抽象化される。だが、女将さんの動きを、坂と看板から切り離して「待ちわびる気持ち」として括ると、彼女のしている仕事の半分が消える。
もうひとつ、書き残しておきたいのは、動詞のかたちのことだ。日本語は、女将さんの動きを書こうとすると、「玄関に出ていって、戻ってくる」と、二つの動詞に分ける。Iktsuarpok は、出ていって戻る、を一語の動詞にする。動詞ひとつで言うか、動詞ふたつで言うか。これは大きいようで、たぶん、そんなに大きくない。
動詞ふたつで言うと、出る瞬間と戻る瞬間が、別々の意識のシーンになる。動詞ひとつだと、その二つは溶けて、ひとつの「外を確かめに行く」という出来事になる。日本語話者の私は、女将さんの動きを書くときに、自然と二つに割っていた。「玄関に出る」と「戻ってくる」。「ふたたび玄関に出る」と「戻ってくる」。一語にする道具は、私の手元になかった。
道具がないこと自体は、致命的ではない。私は、道具がないまま、女将さんの動きを書けている。ただ、動詞をふたつに割ることで、彼女の一連の確認動作が、ほんの少し、ぎこちなく見えていることは、たしかにある。
その日、私は宿を出て、坂を下りた。坂の途中で、海から上がってくる方向に振り返ったときに、看板の位置を確かめた。たしかに、雪が降って、灯がついていない時間帯には、看板はかなり見えにくかった。看板の枠だけが、雪のなかに、白い線として浮いていた。
女将さんが何度玄関に出ていたか、本当のところは分からない。私はそれを覚えていない。覚えていないことを、覚えていないと書く。日本語に Iktsuarpok の対応動詞がないことも、たぶん、そういう「覚えにくさ」と関係している。日本語のなかでは、出ていって戻ってくる動きは、二つの瞬間として記憶される。一連の動作として記憶することが、たまたま、習慣にない。