辛口レビュー
——「ガイドが英語で『コモレビ』と言った」(第一稿)について

編集者(匿名)による第一稿への指摘。対象:訳せないことば #4(第一稿)/書き手:ササキハルカ

全体要旨

第四回はシリーズの自己批評を兼ねる回として企画されており、その狙いは大筋で達成されている。「英語圏で再発見された日本語が、当事者の自己理解に逆流する」というテーマは、本シリーズで扱う価値のある核心論点で、ここを通り過ぎなかったのは大きい。問題は、その自己批評を進めるために、書き手が一段「賢く」なってしまっていることだ。第一稿の文体は、現場の旅行プランナーというよりも、メディア論の批評家のものになっている。「ロマン化のループ」「逆流」「観察される側/観察する側」「再生産」といった批評語彙が、後半に集中して出てくる。シリーズの自己批評として書く必要は認めつつ、自己批評の語り口が借り物になっている。

1. ガイドの英国出身設定

ガイドは英国出身の通訳案内士で、英語の話し方は柔らかく、日本史の説明は端正だった。

このガイド像が、エッセイの後半の論旨(「外側の人間が日本語をエキゾチックに紹介する」)に都合よく作られすぎている。日本人の通訳ガイドが「komorebi」と説明したのなら、論旨は別の角度になっただろうし、その方が現実には頻度が高い。第一稿は、最も論旨と整合する人物(外国人ガイド)を観察対象に置いている。これは取材対象の選び方として、結論先取りになっている。

第二稿に向けては、ガイドの国籍を別に振るか、あるいは「日本人ガイドが英語ツアーで komorebi をエキゾチックな語として紹介していた」という事実のほうが書き手にとって不愉快だった、という、より複雑な観察に書き直すほうが、シリーズの自己批評として深い。

2. 「ざらりとした感じ」の自前の語彙

違和感、というほど強くはない、もう少し弱い、ざらりとした感じがあった。

「違和感ほど強くない、ざらり」という、書き手の感覚を細かく刻む叙述は、観察の精度として読みうる一方で、書き手の語彙の自意識が前に出すぎている。「違和感」と一言で書いてしまうほうが、現場感としてはよほど正直。「違和感、というほど強くはない」と前置きを置く運びは、エッセイの場数を踏んだ書き手のクセ。第二稿では、この前置きを削るか、もっと別の具体(口の中で声に出してみた、など)に置き換えるほうがいい。

3. 中盤の解説モードへの転調

第一稿の中盤、「日本語のなかでの軽さ」「『ない』と言われた英語の側にも、ある」の二段は、エッセイから言語学的解説に転調する。

「英語に一語がない」と「英語にこの概念がない」は、別のことだ。

このテーゼは正しい。正しいが、これを強調太字にしたあとに、書き手はもう旅行プランナーではなく、言語学コラムニストになっている。プランナーが嵐山で得た違和感を、言語学の知識で説明し直す段は、知的だが、エッセイのトーンを壊す。第二稿では、この段を「英語にも似た言い方はあるな、と思った」程度に短く済ませて、解説に展開しないほうが、書き手の身体性に合う。

4. 「ロマン化のループ」概念の登場

外国人向けに発見されたものが、当事者の自己理解に逆流する。

強調太字。文として強くて記憶に残る。この一文を書きたいがためにエッセイ全体が組まれている、と読めるほど、構成の重心がここにかかっている。「ロマン化のループ」という命名のキャッチーさも、エッセイの自己批評としては良すぎて、書き手の旅行プランナー像から離れる。プランナーがあの嵐山の朝に「ロマン化のループ」という概念を組み立てるのは、たぶん、無理。書斎に戻って、複数のソースを読み直して、二週間後にやっと出てくる概念だ。第一稿では、それを当日のうちに書き手が組み立てている演出になっている。

第二稿では、この概念名を消すか、書き手が事務所で「これは何かのループだな」と気づく、ぐらいの粗い言い方に置き換えるほうが、書き手の足元に合う。

5. ガイドへの遠慮の処理

「コモレビは、日本人にとってそこまで特別な単語ではないんですよ」と言いかけて、その一言を、彼に届ける必要があるのかどうか、迷った。

ガイドへの遠慮の段は、エッセイの倫理的厚みを足す部品として機能している。書き手が「言わない」と決める判断は、現場のプランナーとして自然だ。だが、その判断の理由として「彼の説明の自信が一段だけ揺らぐかもしれない」と書く運びは、書き手の配慮を読者にプレゼンするための演出になっている。「迷った」だけで止めて、「結局、何も言わずに帰った」のほうが、現場感として強い。理由を一段書くと、書き手の倫理的判断の透明性を読者に提供しすぎる。

6. シリーズ全体への自己言及の量

「事務所に戻って」「第四回の宿題」の二段で、シリーズ全体(過去三回+次回)への言及が長い。

Sobremesa、Pisan zapra、Iktsuarpok——それらの語は、私(外側の人間)が、現地に行って観察した語だった。Komorebi は逆で……

過去三回の固有名詞を並べて、シリーズの構造を読者に明示する書き方は、シリーズもの第四回として親切ではあるが、本作の独立性を犠牲にしている。さらに「第五回まで予告してしまっているので、書く予定の Saudade は書く」と次回の予告まで本文中で扱っている。これはエッセイの本文ではなく、編集後記の役割。第二稿では、過去回への参照を「以前、別の語を考えたとき」程度に抽象化し、次回の予告は本文から完全に削るのが妥当。

7. 結末の「混ぜないでおく書き方」の宣言

混ぜないでおく書き方が、訳せないことばを扱うエッセイの最低限の作法だと、今回、嵐山で気づいた。

結末で「最低限の作法」という運営方針の宣言で締めている。これは第一回の「視線の角度を一段下げる」(イシカワ系)と同型の、シリーズ運営宣言型の結末。エッセイの結末としては、運営の宣言ではなく、嵐山の光に戻って、それをどう見たかで終わるほうが、対象に対する誠実さが出る。「最低限の作法」は、書き手が読者に対して提供する規範であって、嵐山の竹林の光とは関係がない。

総括と方向

第四回は、シリーズの自己批評を担う重要回で、テーマ設定は妥当。問題は、自己批評の論述が、書き手のキャラクター(旅行プランナー)よりも、メディア論コラムニストの語り口で進行している点に尽きる。

第二稿に向けて:

自己批評を「賢く」やるのではなく、「気がついた」レベルで書ききる。シリーズ運営の宣言は本文の外(編集後記なり、記事末リンクなり)でやる。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。