ササキハルカ(旅行プランナー)
京都・嵐山の竹林、十月の午前。私は、当社が手配する外国人観光客向け英語ツアーの研修見学のために、十名ほどのお客様(オーストラリア、アメリカ、ドイツの混成)と一緒に歩いていた。ガイドは英国出身の通訳案内士で、英語の話し方は柔らかく、日本史の説明は端正だった。竹のあいだから差してくる細い陽の筋が、観光客のスマートフォンを順に光らせていた。
竹林の中ほどで、ガイドはいったん歩みを止めた。「Look at this. We have a word for this in Japanese. Komorebi」。観光客たちは、いっせいに「ko-mo-re-bi」と繰り返した。ガイドは続けて、「Sunlight filtering through leaves. There's no single word for it in English」と言い、いくつかのお客様は「Beautiful」と頷いた。一人のドイツ人女性は、メモ帳を取り出して、ローマ字で書きとめていた。
私は少し離れたところから、その光景を見ていた。違和感、というほど強くはない、もう少し弱い、ざらりとした感じがあった。私の口の中では、その瞬間、「コモレビ」は「木漏れ日」になっていた。日本語の意識のなかで、それは特別なことばではなかった。秋の散歩道で、誰かが「気持ちいい木漏れ日だね」と言うことはあるが、それは「気持ちいい風だね」と同じ重さで、立ち止まって観察するほどの語ではなかった。
ガイドが「コモレビ」と発音したとき、それは私の知っている「木漏れ日」とは、少し違う重さを持っていた。
「木漏れ日」は、字の通り、木の漏らす日、で出来ている。三つの要素(木・漏れる・日)の合成で、構造は透明だ。日本語話者は、この語を「未知の単語」として遭遇することはまずない。子どものころに、たぶん絵本か、教室の窓からの光で、自然と意味を組み立てている。
そのうえ、日常会話のなかでの登場頻度も、それほど高くない。「木漏れ日が綺麗」という言い方をするのは、写真を撮るときか、散歩のときか、エッセイを書くときぐらい。日本語話者にとって、これは「日常のことば」というより、「景色を綺麗だと思った瞬間に取り出す道具」だ。道具なので、使う回数は限定されている。
ところが、英語圏で「komorebi」が紹介されるとき、これは「日本人がこの現象に対して特別なことばを持っている」という形で語られる。実際の日本人は、特別なことばだとは思っていない。「あ、木漏れ日きれいだね」ぐらいで、たぶん通り過ぎている。
もう一つ、私が見学中に気になっていたのは、ガイドが「There's no single word for it in English」と言ったことだ。これは、半分は正しく、半分は粗い。英語にも、似たような場面を指す合成語や慣用句はある——dappled light, sunlight filtering through leaves, sunbeams through the trees, など。一語ではないが、二語三語で確実に伝わる。「一語にできない」のは、英語の側の貧しさではなく、「複合語を一語のように扱う言語」と「複合語を分解して言う言語」の構造的な違いだ。
日本語の「木漏れ日」は、「木」と「漏れ」と「日」の三要素を、漢字の組み合わせと連濁で、一つの単語のように見せている。英語は同じ三要素を「sunlight filtering through leaves」と単語三つで言う。一語かどうかの違いはあるが、概念としては、両方の言語が同じものを名指せている。「英語に一語がない」と「英語にこの概念がない」は、別のことだ。
ガイドの説明は、その日の竹林のシーンに、ある演出効果を与えていた。観光客たちは、それまで通り過ぎていた光に対して、スマートフォンを構え直した。「Komorebi」と発音できる名前を持ったことで、その光は、撮るに値する対象に変わった。
これは、観光ガイドとして悪い演出ではない。むしろ良い演出だ。観光客にとって、現地のことばを一語覚えて帰ることは、旅の手応えになる。ガイドは、その手応えを意図して提供している。商売としては、立派だ。
私の違和感は、ガイドの仕事に対するものではない。「Komorebi」が、「日本人にとって特別な感性のことば」として観光客の頭のなかに格納されていく過程に、当事者である日本人の私が、少し驚いている、というだけだった。私自身は、その語を、特別な感性のことばとしては使っていない。だが、観光客が国に帰って、「日本人は木漏れ日に特別な名前をつけている」と紹介する世界は、すでに広く成立している。
このロマン化は、ループする。英語圏で「komorebi」が「日本人の感性のことば」として広まる。日本のメディアが「外国で『コモレビ』が話題」と紹介する。日本人読者は、「ああ、自分たちは木漏れ日に特別なことばを持っているらしい」と思う。一部の日本人は、エッセイで「我々日本人の繊細な感性は、木漏れ日のような瞬間にも名前をつけてきた」と書きはじめる。書きはじめると、「木漏れ日」は、日本語のなかで本当に「特別な感性のことば」のように、使われる場所を変えていく。外国人向けに発見されたものが、当事者の自己理解に逆流する。
第二回の Pisan zapra は、外国向けに紹介された語が現地の日常から離陸して、現地の若い世代には通じなくなった、というケースだった。Komorebi は、それより一歩進んで、外国向けの紹介が当事者に逆流して、当事者の自己理解そのものを書き換え始めている。これが進むと、日本語のなかでも「コモレビ」は、ふつうの「木漏れ日」とは別の、ややエキゾチックな単語として、独自の位置を持ち始める。
ツアー終了後、私はガイドに「研修ありがとうございました」と頭を下げた。何か聞こうとしたのだが、何を聞きたいのか、整理できなかった。「コモレビは、日本人にとってそこまで特別な単語ではないんですよ」と言いかけて、その一言を、彼に届ける必要があるのかどうか、迷った。
彼の英語ツアーは、観光客に喜ばれていた。観光客は満足して、写真を撮って帰る。「コモレビ」を、日本人がそんなに特別視していない、という事実を、彼が知ってしまうと、彼の説明の自信が一段だけ揺らぐかもしれない。揺らぐ必要があるかどうかは、私には判断できなかった。私は黙って、「またご一緒できれば」とだけ言って、その場を去った。
事務所に戻って、私は手帳に「komorebi」のことを少し書いた。書きながら、これまで三回書いてきた「訳せないことば」のシリーズを、少し違う角度で読み直したくなった。Sobremesa、Pisan zapra、Iktsuarpok——それらの語は、私(外側の人間)が、現地に行って観察した語だった。Komorebi は逆で、外側の人間(観光客とガイド)が、私の側の語を、私の知らない重さで使っていた。
シリーズの設定そのもの——「外国の語を旅先で見つけて、日本語に訳してみる」——のなかに、私が気づかずに乗っていた前提がある。「観察される側」と「観察する側」のあいだに非対称があり、観察する側の言語のなかでロマン化のループが起きうる、という前提だ。今回 Komorebi を扱ってみて、その前提のなかに、自分自身も入っていることに気づいた。Sobremesa を「素敵な時間の権利」として紹介するとき、スペインの当事者は、それを私と同じ重さで聞いているとは限らない。スペイン人にとっての sobremesa は、嵐山の竹林の私にとっての「木漏れ日」と同じくらい、ふつうの語かもしれない。
では、シリーズはどう続けるべきか。第五回まで予告してしまっているので、書く予定の Saudade は書く。書くが、書き方を変える。「ポルトガル人にとってのサウダージ」を、ポルトガル人の温度で書こうとする努力を、もう一段足す。難しいが、それをやらないと、私は外側からロマン化を再生産するだけになる。
嵐山の竹林の話に戻ると、あの日の光は、たしかに綺麗だった。「コモレビ」と呼ぶか、「木漏れ日」と呼ぶか、「sunlight filtering through leaves」と呼ぶか、で、光そのものの綺麗さは変わらない。変わるのは、その綺麗さを、誰がどんな重さで受け取るかだ。観光客にとっての komorebi、私にとっての木漏れ日、ガイドにとっての説明上の道具、というそれぞれの位置を、混ぜないでおきたい。混ぜないでおく書き方が、訳せないことばを扱うエッセイの最低限の作法だと、今回、嵐山で気づいた。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。
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