核は強い。鍛接の火加減を「藁を焼いたような明るい黄の手前」と色で読む手つき、焼き入れの「折れる刃と曲がる刃の間」、そして先代の刃を何年もかけて自分の曲率に研ぎ直す作業。この三点で十分に一本立つ。問題は、この書き手がデビュー作の轍をまた踏んでいることだ。強い具体を出した直後に「のだと思う」「のかもしれない」で逃げ、最終段で主題を要約し、自分で自分を赦して締める。木地師という設定は本物なのに、文の手つきが素人くさい。鍛冶の話をしているのに、文章の焼き入れが甘い。
「椀を挽くのも木地なら、その刃を打つのも、研ぐのも、譲られた刃を直すのも、すべて木地の仕事なのだ。」「木地師は、椀をつくる前に、椀をつくる道具をつくる人間でもある。」
エッセイの主題を、最終段で主題文として書き下してしまっています。これは要約であって結びではない。「道具を作るのも木地なのだ」と直叙した瞬間、それまで積み上げた火と水と砥石の具体が、ぜんぶこの一文の例示に格下げされる。読者は黄の手前の色や折れる刃と曲がる刃の間から、自分で「ああ、これも椀づくりだ」とたどり着きたいのに、その道を作者が先に舗装してしまっている。デビュー作の「私をいまの私にしてくれた」と同じ病です。
「刃は、その人の手の延長のようなものなのかもしれない。」「道具を育てるというのは、たぶんこういうことなのだと思う。」
「道具は手の延長」「道具を育てる」は、職人エッセイの自動販売機から出てくる常套句です。魂を込めるの類で、どの工芸の語り手にも貼れる。あなたは直前で「足の送りがやや速いから、刃先はわずかに浅く起こす」という、ヤマガコウタにしか書けない具体を出している。それで足りているのに、わざわざ汎用の格言で薄める。具体が強いほど、その後ろに付ける感慨は不要になる。装置を出したら、解説は引っ込めること。
「色が温度を教えてくれるようになるのだと思う。」「私はこの切り替えの瞬間が、たぶん嫌いではない。」「親方の声だったのか……」(※前作の癖の再来)
二十四年、火の色で温度を読んできた人間が、その読みを「のだと思う」で語るのは弱い。温度を色で当てるのは思うことではなく、できることです。断定してよい。「嫌いではない」の二重否定も逃げで、火の日が好きなら好きと書けばいい。留保語尾は謙虚に見えて、実は作者が言い切る責任から降りているだけ。職人の一人称は、手が知っていることについては言い切るのが自然です。
「荒砥、中砥、仕上げ砥と番手を上げていって、刃先に細い光の線が立つまで研ぐ。」
番手を上げるのは手順の説明であって、観察ではない。実際に毎朝研いでいる人間なら、砥石そのものが出てくるはずです。中砥の真ん中だけ凹んできて面直しが要るとか、仕上げ砥に張りつく研ぎ汁の色とか、冬の朝は水が冷たくて指がかじかむとか。「光の線が立つ」も図鑑的で、鉤型の刃の内側のカーブをどう砥石に当てるのか——平らな砥石で曲がった刃をどう研ぐのか——という、この刃物に固有の難所がまるごと飛ばされています。そこが一番見たい。
「地金と鋼を重ねて火に入れ、頃合いを見て鎚で打ち、二つを一つにする。」
これは鍛接の辞書的記述で、誰でも調べれば書ける。「頃合いを見て」が逃げの極みで、その頃合いこそが二十四年の中身でしょう。鎚を打ったとき地金と鋼が付いた手応えはどう来るのか、付かなかったときの空振りの感じはどう違うのか。色で読むと書いた火加減も、節3では強いのに、ここでは「頃合い」に痩せている。職業の手つきは、動詞と感触で書くしかない。「一つにする」のような結果の名詞でまとめると、手が消える。
「木の仕事から、鉄の仕事へ。同じ手で、まるで違うものに触れる日だ。」
挽く日と打つ日の切り替えは、この一本のいちばんおいしい構造です。なのに「木から鉄へ、まるで違うものに触れる」という対句の気分で流している。本当に切り替わるなら、手のどこに出るか書けるはず。木を挽いた日の指先は乾いて白い粉をかぶり、火の日の終わりには鉄と炭の匂いが爪の間に残る、というように。轆轤に布をかける具体はいいのに、その先を抽象の対句に逃がしてしまった。冒頭で立てた「二つの顔」を、感触で受け切れていない。
残すべきは三つ。鍛接を色で読む「明るい黄の手前」、焼き入れの「折れる刃と曲がる刃の間」、そして先代の刃を自分の曲率へ研ぎ直す年月。削るべきは、最終段の主題解説、「手の延長」「道具を育てる」の汎用格言、そして手順の説明に痩せた鍛接と研ぎ。改稿では、留保語尾を断定に直し、鍛接は「付いた手応え」を一つ、研ぎは「曲がった刃を平らな砥石でどう当てるか」を一つ、具体の動作で書いてください。結びは主題を言わず、新しい一本が何椀目かで手に馴染んだ、その一椀の動作で閉じること。意味は、火と水と砥石が運ぶ。説明が運ぶのではない。