核は強い。「木は丸太のうちから椀だ。どこを椀にするか、木が決めてる。お前は見つけるだけだ」という親方の一言、鉤型の刃を自分で打って研ぐ事実、薄く挽いた椀が光に透けること、漆の下に消える木地。この四点だけで一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用せず、雨と匂いの書き割りで場面を立ち上げ、「木と対話する」式の常套で叙情を安く調達し、最終段で全部を解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、刃と回転に厳密なはずの職人を語り手にしながら、肝心の場面で手つきが曖昧なこと。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「あの秋に教わった『木が決めてる、お前は見つけるだけだ』という言葉が、木地師としての私をいまの私にしてくれたのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ヤマガコウタである必然がない。しかも親方の言葉を末尾でもう一度引いて意味づけし直すのは、二度同じ札を切る行為で、最初に出したときの切れ味を自分で鈍らせています。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「回る木と、それに向き合う刃。木と対話するように削っていくのだと、親方はよく言っていた気がする。」
「木と対話する」は、職人エッセイを生成させると必ず出てくる既製の叙情装置です。本当に二十四年轆轤を回した人間が語るのは、対話ではなく、回転数と刃の送りの速度、逆目に入った瞬間に手に来る抵抗、削り屑の出方のはずです。対話という比喩は人物を消し、生成された“それっぽさ”だけを残す。しかも「よく言っていた気がする」と伝聞に逃げており、本当に聞いた言葉なのかどうかも怪しい。
「工房には木の匂いが静かに満ちていて、窓の外には冷たい雨が降っていたのを覚えている。」
雨、匂い、静けさ。三点セットで「味のある職場」を安く調達しています。これは前作(コウノアサコ)のレビューで叩いた構文とほぼ同型で、書き手の手癖になりかけている。木地の工房で本当に立つのは「木の匂い」という抽象ではなく、栃と欅で違う匂い、生木と荒挽きで違う匂い、そして何より轆轤のモーター音か、削り屑が土間に落ちる音のはずです。雰囲気が人物より先に立っている。
「栃の木だったと思う。」「無口な人だったと思う。」「親方はよく言っていた気がする。」「そういうものらしかった。」
木地師は断定で生きている職業です。ミリ以下の厚みを指で決め、狂う木と狂わぬ木を木取りの段階で見切る。その人物の回想が「〜と思う」「〜気がする」「〜らしかった」で埋まっているのは、不安な若手の心理描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに弟子入りの年に渡された一本の木が栃か欅かを「だったと思う」で済ますのは致命的で、この語り手なら、その木の木口の年輪まで覚えているはずです。
「鉤のように先の曲がった刃で、椀の内側のカーブはこの刃の形がそのまま決める。」/「指で椀の壁をなぞれば、厚みのわずかな差が分かるようになる。」
刃の形が内側のカーブを「そのまま決める」と書いてしまうと、轆轤挽きが刃の押し当てだけの単純作業になってしまう。実際は、回転する木に対して刃をどの角度で、どれだけの速さで送るかで曲面が出る——「轆轤の足と手の同調」こそがこの仕事の核のはずなのに、第一稿は足踏み轆轤か電動かにすら触れていない。指で厚みを測る場面も「分かるようになる」と一般論で逃げており、ある一椀で薄く挽きすぎて穴を空けた、というような具体の失敗が一つもない。手つきが概念のまま。
「待つことも仕事のうちなのだと、私はその年、初めて知ったのだった。」「見えなくなる仕事こそ、いちばん丁寧にやれ。」
荒挽きを年単位で寝かせる、その年月の描写そのものが「待つことも仕事」を語っているのに、わざわざ抽象語で言い直して教訓化しています。「見えなくなる仕事こそ丁寧に」も、漆の下に削り跡が消えるという事実がすでに全部言っている。同じ内容を標語で言い直すたびに、事実の値打ちが下がる。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「それだけだった。私はしばらく、その意味を考えていた。」
この二文は、校閲者の回想にも、料理人の回想にも、そのまま置ける(事実、前作にほぼ同文がある)。考えていた中身——丸太のどこに椀があるのか目で探したのか、自分には一生見えないと怖くなったのか——を書かなければ、人物の思考は存在しないのと同じです。
残すべきは四つ。「木は丸太のうちから椀だ」の一言、自分で打って研ぐ鉤型の刃、光に透ける薄挽き、漆の下に消える木地。削るべきは、雨と匂いの書き割り、「木と対話する」式の常套、留保語尾、最終段の主題解説。改稿では、弟子入りの年に渡された木の種類と木口を断定で書き、轆轤の足と手の同調を一つの具体動作(足の速度を落として刃を送る、など)で見せ、「初めて」何かが分かった瞬間を、教訓ではなく一椀の手の記憶として書いてください。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。