除籍印を押す朝
本にも終わりがある、と司書は知っている

ヤマギシサオリ(34歳・市立図書館司書12年)

返却カウンターの天板は腰の高さにある。けれど除籍の作業は、開館前の事務室の机でする。利用者のいない時間、まだ照明を半分しか点けていない部屋で、朝の光が書架のほうから静かに差し込んでくる。その光の中で、私は処分の決まった本を一冊ずつ手に取っていく。

「除籍」という言葉を、初めて聞いたときは少し驚いた。本を捨てることを、こんなに官僚的な硬さで言うのか、と。籍を除く。人を戸籍から外すときと同じ言葉だ。台帳から消し、蔵書印の上に「除籍」の朱を重ねて押す。そうして初めて、その本は図書館の本ではなくなる。

除籍の理由は、おおむね三つだと言われている。傷み、内容の更新、利用の減少。新しい版が出れば古い版は退く。何年も借り手のつかない本は、書架の場所をゆずるために退く。本にも寿命があるのだと、教えられたのは一年目の冬だったと思う。

その朝、机に積まれた山の中に、一冊の文庫本があった。最終貸出日のスタンプを見ると、十三年前で止まっていた。それきり、誰の手にも渡らなかったのだろう。ページは少しも傷んでいない。傷んでいないことが、かえって寂しかった。読まれなかった本のきれいさには、どこか申し訳のような気配がある。

反対に、表紙のブッカーフィルムが端から黄ばんで剥がれかけた絵本もあった。背は割れ、角は丸くすり切れている。貸出回数の記録を見ると、百回をゆうに超えていた。『はらぺこあおむし』のような本は、たぶん耐用の限界というものがある。何百という小さな手が、同じページの同じ穴に指を通してきたのだ。この一冊は、傷んだから除籍されるのではない。十分に働いて、役目を終えたのだと思った。

誰が借りたのかは、見ない。最終貸出日のスタンプは見えても、その日に誰がカウンターへ来たのかまでは、私は調べない。それは司書の倫理の根っこにある。本の終わりに立ち会うときも、私が見ているのは本だけで、人ではない。

蔵書バーコードに斜線を引き、システムから登録を抹消する。最後に除籍印を押す。朱肉のにおいが、半分だけ点いた事務室にうっすら広がる。判子を持つ手が、ほんの少しためらう朝もある。けれど、ためらっていても本は減らないので、私はまた次の一冊を手に取る。

除籍された本は、捨てられるわけではない。月に一度のリサイクル市で、長机に並べられ、市民が無料で引き取っていく。「ご自由にお持ちください」の札の下で、十三年眠っていた文庫が、誰かの鞄に収まっていくのを、私は遠くから見ている。図書館の籍は失っても、本はまた誰かの暮らしへ帰っていける。

本の終わりを看取るのも、また司書の仕事なのだと、いまでは思う。貸すこと、受け取ることと同じくらい、終わらせることもこの仕事の一部だ。朝の光の中で除籍印を押すたびに、私はそのことを静かに噛みしめている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。