ヤマギシサオリ(34歳・市立図書館司書12年)
窓口の脇に、薄緑のカードが束ねて置いてある。リクエストカードという。うちの館に無い本を、利用者が「読みたい」と申し込むための紙だ。罫線が三つ。書名、著者名、出版社。その下に、もう一つ枠がある。「この本を必要とする理由(任意)」。任意、と小さく刷ってある。書かなくていい、という意味だ。
たいていの人は、上の三つだけ書いて出す。理由欄は白いまま、ボールペンの先が触れもしない。それでいい。私たちは書名さえあれば探せる。所蔵がなければ、県内の他館から取り寄せる。相互貸借という。書誌をシステムで叩いて、所蔵館を見つけ、依頼をかける。事務の手順だ。本が来れば電話をする。それだけのことだ。
けれど、理由欄をびっしり埋めて出す人がいる。任意なのに、枠からはみ出して、矢印で余白へ続けて、裏まで使う人がいる。窓口で受け取るとき、私は表の三行しか読まない決まりだ。けれど紙はめくれる。裏に字があれば、目に入る。入ってしまう。
あるカードは、闘病記だった。書名のところに著者名が、著者名のところに病名が書かれていて、欄を間違えたまま二重線で消して、横にまた書き直してあった。理由欄には、家族の名前らしいものと、「同じ病気の人がどう過ごしたか知りたい」と、丸い字で書いてあった。ボールペンの字が、ところどころ強く、紙の裏まで凹んでいた。筆圧というのは、こんなに正直なものかと思う。
レファレンスで本を探し当てるのが、私たちの仕事だ。題名が分からなくても、特徴さえあれば手繰れる。先日のカードは、書名の欄が空白で、理由欄にこうあった。「子どものころ読んだ絵本。ねずみが出てくる。表紙が黄色。最後にみんなでパンを食べる。題名がどうしても思い出せません」。署名はない。年齢も書いていない。けれど「子どものころ」という四文字で、この人がもう若くないことだけは分かった。
同定の作業に半日かかった。黄色い表紙、ねずみ、パン。絵本のデータベースを舐めるように繰って、出版年で当たりをつけて、三冊に絞って、書影を取り寄せて、ようやく一冊にたどり着いた。私はその題名を、レファレンス記録に淡々と書いた。書名、著者、解決までの経路。理由は書かない。記録に残すのは、探した手続きであって、探させた気持ちではないからだ。気持ちは、どこにも残らない。
本が用意できると、取り置き棚に並べる。利用者の名前を書いた帯を巻いて、来館を待つ。電話をかけるときの言い回しは決まっている。「ご依頼の資料、ご用意できました」。資料、と言う。本、とは言わない。闘病記も、黄色い絵本も、同じ三文字で「資料」になる。そう言うように研修で習った。中身に立ち入らない言い方だ。立ち入らないことが、たぶん、礼儀なのだろう。
理由欄の空白も、また一つの理由なのだと思う。書けなかったのではなく、書かないと決めた白さ。びっしり書く人の筆圧と、白いまま出す人の沈黙と、二重線で消した一行の迷い。カードは、本そのものより雄弁だ。窓口に立つたび、私はその薄緑の紙を、人生の断片そのものとして受け取っている。
今日も束は減り、また補充される。私は書名を読み、本を探し、資料をご用意し、電話をかける。理由は読んでも、記録には残さない。残さないことで、私はその人の暮らしを、開かずに棚へ戻している。それが司書という仕事の、静かな作法なのだと、いまでは思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。