核は強い。「いくよ、いち、に」という三拍の符牒、踊り場で誰も声を出さずに九十度回す瞬間、ベルトを肩ではなく腰で受ける理由、そして「もう誰も弾かないんですけどね」と言いながら追加料金に頷く依頼主。この四点だけで一本立つ。問題は、重さと数字で生きてきたはずのこの語り手が、肝心なところで急に詩人ぶり、最終段で自分の見たものを「家族の記憶」という一語に両替して終わってしまっていることだ。キロの人が、キロで語るのをやめた瞬間に、エッセイが嘘になる。
「弾かないピアノを運ぶということは、たぶん、家族の記憶を運ぶということなのだろう。」
第一稿でいちばん効いていた「もう誰も弾かないんですけどね」を、作者が自分で噛み砕いて、いちばん安い言葉に翻訳してしまっている。「家族の記憶を運ぶ」は、引っ越し業者を主人公にしたどのエッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ヤナギダコウスケである必然がない。依頼主の一言がすでに全部を運んでいるのに、その上から作者の要約を重ねたぶん、一言の値打ちが下がっている。
「その選択の重さを、私は腕で知っているような気がした。」/「重さの奥にもう一つの重さがある気がしてならない。」
この語り手は、踊り場の奥行きが八十センチを切れば切り返せないと断言する人間だ。数センチを数字で握る人物が、自分の感覚については「ような気がした」「気がしてならない」と逃げる。前作のレビューでも同じことを言ったはずだ——断定で生きている人物の留保語尾は、怯えの描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。腕で知っているなら「知っている」と書け。気がするだけなら、まだ書く段階ではない。
「子どもが小さかったころの音、発表会の朝の緊張、もう手放せない時間の重さ。」
見てもいない他人の家の中身を、絵に描いたような「ピアノの思い出」三点セットで埋めている。発表会の朝、小さかったころ。これは観察ではなく、生成された“ピアノらしさ”のカタログだ。この書き手が本当に運んだのは、養生の毛布越しの角の固さであり、ベルトが腰に食い込む二百五十キロの実体であって、見たこともない発表会ではない。雰囲気が人物より先に立っている。
「誰も弾かないと言った家でも、その並び方だけは、まるでこれから音が鳴る部屋のようだった。」
「ピアノの位置が最初に決まり、他の家具が従う」という観察そのものは鋭い。これは重さと寸法の人間にしか書けない、家具の力学の発見だ。なのに、それを「これから音が鳴る部屋のようだった」という詩的な比喩で締めて台無しにしている。家具がピアノに従う理由は、たぶん音ではなく、二百五十キロは置いたら動かせないから最初に決めるしかない、という即物的な事実だ。そっちのほうが、よほどこの語り手の発見になる。
「誰が考えた符牒なのかは知らない。私が入る前から、現場ではそう言うことになっていた。」
「いくよ、いち、に」は第一稿で最良の発見の一つなのに、その来歴を「知らない」で流している。知らないのはいい。だが、この語り手なら、最初に四人で担いだ日に誰がどの位置で何と言ったかを、体で覚えているはずだ。符牒の起源を語れないなら、せめて自分が初めてその三拍に乗った瞬間の、力の入り方の変化を書け。概念で逃げず、一度だけの現場に落とすこと。
「その注意書きを置くたびに、私はこの家の誰かが、いつかまた弾く日を勝手に想像してしまうのだった。」
「運んだ私たちには、そのずれは聞こえない」は良い。運搬する者と弾く者の断絶を、聴覚で切ったのは正しい。だがその直後に「いつかまた弾く日を勝手に想像してしまう」と、せっかく切った断絶を作者がまたぐ。想像してしまうのは作者の都合であって、語り手の職能ではない。注意書きは、聞こえない者が聞こえる者へ手渡す唯一の伝言だ。だったら、伝言を置く手の動作だけで終わらせたほうが、はるかに残る。
「その一行が出ると、現場の空気が少しだけ静かになるような気がした。」
「現場の空気が静かになる」は、ピアノでも金庫でも仏壇でも言える。しかも語尾はまた「気がした」だ。空気が静かになったのなら、静かになった具体——誰が煙草を消したのか、リーダーが下見の写真をもう一度開いたのか——を書かなければ、その静けさは存在しない。前作のレビューと同じ指摘を繰り返させないでほしい。
残すべきは五つ。「いくよ、いち、に」の三拍、踊り場で声を出さずに回す数秒、ベルトを腰で受ける理由、別料金の伝票に頷く依頼主の「もう誰も弾かないんですけどね」、そして「運んだ私たちには、そのずれは聞こえない」。削るべきは、「家族の記憶」の直叙、発表会の三点セット、「音が鳴る部屋のようだった」の比喩、そして連発する「気がした/気がしてならない」。改稿では、ピアノが最初に決まる理由を「動かせないから」という即物で書き、最終段は依頼主の一言と調律の伝言だけで閉じること。意味は重さが運ぶ。説明が運ぶのではない。