核は強い。棚に残った箱の形の四角い色、留守電一本で終わる引き上げと「最後だから」と茶を出される引き上げの対、洗浄して名前を消され次の家へ回される箱。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、雨で場面を立ち上げ、最終段で主題を直叙して回収し、要所要所を留保語尾でぼかしていることだ。この語り手は四十七年、他人の家の薬箱を数えて一年を読んできた男である。読む人間が、自分の感情をこれほど読まずに済ませているのは不自然だ。
「窓の外には冷たい雨が降っていて、引き上げの日は、たいていそういう日のような気がする。」
一行目から雨で湿らせにきている。終わりの場面に雨を降らせるのは、感傷をいちばん安く調達する手口で、生成された“しんみり”の典型です。この男なら、引き上げの日を覚えているのは天気ではなく、箱の中身のはずだ——最後に何が減っていたか、何が手つかずで残っていたか。雨ではなく、箱の中の薬の減り方で日を語らせること。叙情は外気からではなく、職業の目から立ち上げるべきです。
「線を引く手が、いつもより少し重い気がする。」「帰り道でいつもより煙草が旨い気がする。」「拭いてしまうのは、なんだか違う気がしたのだ。」
「気がする」が連発されています。薬の減り方からその家の無理まで読み当てる男が、自分の手の重さや煙草の味を「気がする」で逃がすのは、人物の精度と合いません。これは語り手の慎みではなく、断定を避ける作者の保険です。重いなら重い、旨いなら旨いと書く。読む職業の人間に、自分の感覚だけ留保させてはいけない。
「箱の中の使いかけの薬を数え、減った分を精算する。」
「使いかけの薬」は概念であって観察ではない。デビュー作で「胃腸薬が三包」「貼り薬一枚二十円」とまで数えた語り手が、最後の精算でだけ品目を言わないのは嘘くさい。引き上げの箱の中身こそ、その家の最後の一年が出る場所です。手つかずの風邪薬、半分だけ減った胃腸薬、湿布の最後の一枚——具体の品名と数で書けば、別れの説明は要らなくなる。
「箱に罪はない。箱は、ただの箱なのだから。」
これは詩のふりをした空語です。「ただの○○なのだから」は、どんな別れのエッセイにも貼れる既製の言い回しで、ヨネクラギンである必然がない。倉庫の洗浄という強い具体物(名前が消える、また日に焼ける)をすでに書いたのだから、わざわざ抽象的な慰めで上塗りしないこと。洗われて誰の家のものでもなくなる、その事実だけを置けば十分です。
「引き上げも商いのうちなのだ、と自分に言い聞かせて、私は今日も鞄を提げて出かける。」
主題を主題文として書いて、自分で自分を赦してしまっています。「商いのうちなのだ」と直叙した瞬間、それまでの場面が全部この一行の前振りに格下げされる。しかも「自分に言い聞かせて」「今日も鞄を提げて出かける」は、職業エッセイの結びに無数に貼られてきた判子です。十年で引き上げが新規を上回ったという帳面の事実のほうがよほど雄弁なのに、解説がそれを台無しにしている。
「あれだけが、私がその家にいた証なのかもしれない、と思う。」
「〜なのかもしれない、と思う」で、わざわざ余韻を作りにいっています。棚の四角い色は、それ自体が証として強い。読者がそう感じる前に、作者が「証なのかもしれない」と意味づけてしまえば、余白は消えます。最後の一文は、像を一つ置いて黙ること。意味は読者が引き受ける。
「精算書に「引上」と書いて、線を一本引く。」
引き上げの精算は、ふだんの集金と何が違うのか。最後だけは現金で清算するのか、預かり金を返すのか、期限切れを引き取ると金額はどう動くのか。四十七年の男なら、引き上げ精算の独特の段取りが手に入っているはずです。「線を一本引く」はデビュー作の代替わりの場面(帳面に線を引いた)と同じ絵で、ここで使い回すと既視感が出る。引き上げ"だけ"の手つきを一つ、具体で見せること。
残すべきは四つ。棚に残った箱の形の四角い色、留守電一本の引き上げと「最後だから」の茶の対、倉庫で洗われ名前を失って次の家へ回る箱、そして新規より引き上げが多くなって十年という帳面の数字。削るべきは、冒頭の雨、連発する「気がする」、「箱に罪はない」と最終段の「商いのうちなのだ」という自己赦し、結びの「証なのかもしれない」。改稿では、引き上げる箱の中身を具体の品名と数で書いて別れを語らせ、精算の段取りを引き上げ独自の手つきで一つ見せ、最後は四角い色を置いて黙ること。読む男には、自分の感情も読ませてやってください。