ヨネクラギン(70歳・配置薬の営業47年)
配置薬を四十七年やってきた。先に薬箱を置き、使った分だけ後から集金する。置きにいく仕事だが、いつかは引き上げにいく仕事でもある。窓の外には冷たい雨が降っていて、引き上げの日は、たいていそういう日のような気がする。
「もう箱は要らない」と言われる日が、どの得意先にも来る。理由はいろいろだ。代替わりで若い人が「親父のときからお世話になりましたが」と頭を下げる。お年寄りが施設に入る。子が出ていって、家じまいをする。どの理由も、こちらが何かを間違えたわけではない。ただ、その家の置き薬の時間が、終わるというだけのことなのだろう。
引き上げにも手順がある。まず最後の集金をする。箱の中の使いかけの薬を数え、減った分を精算する。期限の切れたものは引き取り、まだ使えるものは、欲しいと言われれば置いていく。精算書に「引上」と書いて、線を一本引く。それだけのことなのだが、線を引く手が、いつもより少し重い気がする。
箱を持ち上げると、棚に四角い色が残っている。四十年そこにあった箱の形のまま、日に焼けずに残った色。家の人と二人で、しばらくその色を見ていた。「あら、こんなに焼けてたのねえ」と奥さんが言う。私は何も言わず、布巾で棚を拭こうとして、やめた。拭いてしまうのは、なんだか違う気がしたのだ。
引き上げの日に、お茶を出される家がある。「最後だから」と、いつもより上等な茶菓子が出る。世間話が長くなる。先代の話、子どもの話、町の医院がなくなった話。茶を飲み干して腰を上げると、玄関まで送ってくれて、深く頭を下げられる。こういう日は、帰り道でいつもより煙草が旨い気がする。
その一方で、留守電一本で終わる引き上げもある。「すみません、もう薬は結構です。箱は玄関先に出しておきますので」。訪ねると、本当に玄関の三和土に、箱がぽつんと置いてある。中に最後の精算分を入れた封筒。インターホンを押しても、誰も出ない。私は箱を抱えて、誰もいない玄関に一礼して帰る。どちらの引き上げも、同じ一軒だ。
引き上げた箱は、会社の倉庫に戻す。古い薬を抜き、洗浄して、また次の家へ回す。箱に家の名前は書いていないから、洗われてしまえば、どこの家にあったかはもうわからない。次の家の棚で、また新しく日に焼けていくのだろう。箱に罪はない。箱は、ただの箱なのだから。
帳面をめくると、線を引いた得意先の欄が、年々増えている。新規の契約より引き上げのほうが多くなった年から数えて、もう十年になる。商いが、増えるのではなく減っていく帳面。けれど、それも仕事のうちだ。引き上げも商いのうちなのだ、と自分に言い聞かせて、私は今日も鞄を提げて出かける。
四十七年で、私はたくさんの箱を置き、たくさんの箱を引き上げてきた。置いた日のことより、引き上げた日のことのほうを、なぜかよく覚えている。棚に残った四角い色。あれだけが、私がその家にいた証なのかもしれない、と思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。