認証評価の自己点検書類を作っている。「学生支援」の章。
南山大学は、直近の認証評価でこの項目にS評価——最高評価——をいただいた。学生相談体制、キャリア支援、障害学生支援、留学生支援、いずれも高い評価を受けた。教務の末端にいる私にとっても、素直に嬉しい結果だった。
だが、書類を作りながら、ひとつの問いが頭を離れない。
S評価をいただいた「学生支援」の中で、学生自身はどのくらい「参画」していたのだろう。支援を設計し、運用し、評価する過程に、支援を受ける当事者がどれだけ入っていたのだろう。
私は教務アシスタントだ。制度を作る側ではなく、運用する側にいる。だからこそ見える景色がある。制度の外側は立派だ。だが内側から見ると、少しだけ、気になるところがある。
毎学期、授業評価アンケートを実施している。全学共通。回収率は、ここ数年、緩やかに下がっている。
なぜ学生は書かなくなるのか。聞いてみたことがある。ある学生がこう言った。「書いても変わらないから」。別の学生は「結果を見たことがない」と言った。
私たちはアンケートを「取っている」。集計し、報告書にまとめ、教授会に提出している。認証評価の書類にも「毎学期、授業評価アンケートを実施し、結果をFDに活用しています」と書く。書ける。事実だから。
だが、「聴いている」と言えるかどうかは、別の話だ。
聴くとは何か。たぶん、聴いた後に何かが変わったことを、声を出した側が確認できることだ。声を出して、声が届いて、何かが動いて、その動きが見える。そこまで含めて「聴く」なのだと思う。
アンケートを取って、集計して、報告書にして、棚に入れる。それは「聴いた」ではなく「記録した」だ。記録と傾聴は、似ているようで、まるで違う。
「学生FD」という取り組みがある。FDはFaculty Development——教員の能力開発——の略だ。そこに「学生」がつく。学生が教育改善に参加する仕組み、という趣旨だ。
南山大学でも学生FDに取り組んでいる。真摯に。開催回数も増えてきたし、参加する学生も少しずつ増えている。運営に携わる教職員の熱意は本物だ。
だが、運用の内側にいると、小さな矛盾が見えることがある。
ある年の学生FDの準備会議に出たときのことだ。議題を決めているのは、教務委員会のメンバー——教員だけだった。「学生に自由に意見を言ってもらう場」の設計を、学生不在で行っていた。自由に意見を言える場を、自由でない方法で設計している。
これは悪意ではない。むしろ善意だ。「学生が話しやすいテーマを選んであげよう」「進行がスムーズになるように準備しておこう」。全部、学生のためだ。だが、「学生のため」と「学生と」は、同じではない。
このシリーズの留学生のエッセイを読んだとき、私は少し痛かった。ファン・ミンギュンが書いていた。「『あなたたちのため』と言う前に、『あなたたちはどう思いますか』と一回だけでも聞く。たぶん、それくらいのことなのだと思います」。あの一文が刺さったのは、自分がまさに「あなたたちのために」議題を選んでいた側だったからだ。
1969年、シェリー・アーンスタインという都市計画の研究者が、「市民参画のはしご」(A Ladder of Citizen Participation) という有名なモデルを発表した。参画には段階がある、という考え方だ。
下段(非参画):操作 (manipulation)、治療 (therapy)
中段(形式的参画):情報提供 (informing)、諮問 (consultation)、懐柔 (placation)
上段(実質的参画):協働 (partnership)、権限委譲 (delegated power)、市民統制 (citizen control)
これを大学の「学生参画」に当てはめると、どうなるか。
アンケートを取って結果を公表する——これは「情報提供」と「諮問」の間くらいだ。学生FDを開催して意見を聴く——「諮問」だ。意見を聴いて、一部を反映する——「懐柔」に近い場合もある。
多くの大学の「学生参画」は、正直に言えば、はしごの中段で止まっている。「聞きましたよ」の段階だ。
上段——協働、権限委譲——に進むとはどういうことか。カリキュラムの改編を学生と一緒に設計すること。教育目標の見直しに学生が委員として参加すること。認証評価の自己点検書類を学生が読んでコメントすること。
難しい。難しいが、サブシディアリティの原則で言えば、当然のことでもある。学生が自分でできることを、大学が奪わない。だが「学生が自分でできること」の範囲を誰が決めるか——そこに、いつも同じ問題がある。
具体的な話をする。
数年前、カリキュラムの大きな改編があった。教務委員会が改編案を作り、「学生の意見を聴く会」を開いた。15人の学生が来た。2時間かけて、いろいろな意見が出た。「この科目は残してほしい」「実習の時間が減るのは困る」「選択肢が増えるのは嬉しいけど、どれを選べばいいかわからなくなる」。
私は議事録を取った。丁寧に取った。教務委員会に提出した。委員会は議事録を読み、一部を改編案に反映した。
そして——その結果がどうなったかを、あの15人に返したことは、一度もなかった。
15人は、自分の声がどこに行ったか知らない。反映されたのか、されなかったのか。されたとしたらどこが変わったのか。何も知らないまま、翌年の新カリキュラムが始まった。
「聴きました」は完了形だ。だが「聴きました」の次が来ない限り、声を出した側にとっては、壁に向かって話したのと同じだ。
このシリーズで17歳の高校生が書いていた。「聞かれることと、聞かれないことは、違う。『いい』って断るのと、最初から聞かれないのは、違う」。あの子が言っていたのは、宿題の話だった。でも構造は同じだ。声を出す機会があるかどうか。出した声が届いたかどうか。届いた結果が見えるかどうか。全部違う。全部大事だ。
南山大学の学生支援がS評価を受けたことは、本当に誇らしいことだと思っている。お世辞ではない。
学生相談室の体制、障害のある学生への合理的配慮、留学生のサポート、キャリアセンターの充実——どれも、多くの教職員が長い時間をかけて積み上げてきたものだ。私はその一端にしか関わっていないけれど、誠実な仕事が積み重なっていることは、中にいるからこそわかる。
だからこそ、その先を考えたい。
S評価は「支援の質が高い」という評価だ。だが、支援を設計するプロセスに学生がどう参画しているかは、また別の問いだ。良い支援を「してあげる」ことと、支援のあり方を「一緒に考える」ことは、違うステップだ。
認証評価の書類には「実績」を書く。何をしたか。何回やったか。何人参加したか。それは大事だ。だが、もうひとつ問われるべきことがある。
学生は、自分の声が届いたと感じているか。
これは数字にしにくい。書類に書きにくい。だが、これが欠けていると、どれだけ実績を積んでも、参画ははしごの中段に留まる。
私の小さな提案はこうだ。聴くだけでなく、返す。アンケートの結果を学生に返す。意見聴取の結果、何が変わり何が変わらなかったかを返す。返すこと——それが、「聴きました」を完了させる最後の一歩だと思う。
このシリーズを通して読んで、気づいたことがある。
タケウチソウタは「俺に聞いた?」と書いた。ファン・ミンギュンは「あなたたちのため、と言う前に聞いてほしかった」と書いた。田代澄子は、譲られすぎて自分の速さが自分のものでなくなる、と書いた。
全部、同じ構造だ。上位が下位のために何かをする。だが、下位に聞かない。聞いても、返さない。
大学の「学生参画」も、同じところで立ち止まっている可能性がある。聴いている。でも返していない。聴いたことを証明する書類はあるが、返したことを証明する書類はない。
「学生参画」は、聴いた後に返すところから始まる。返すことは、「あなたの声は届いた」という確認であり、「次も声を出してほしい」という招待であり、「この制度はあなたのものでもある」という宣言だ。
それは、たぶん、サブシディアリティの最もささやかで、最も具体的な実践だ。
「聴きました」は、返すまで、完了しない。
明日、あの15人のうち、連絡先がわかる人から順に、メールを書こうと思う。「あのとき出してくれた意見が、ここに反映されました。ここは反映できませんでした。理由はこうです」。遅い。遅いけれど、遅くても返さないよりは、ましだ。
安藤 結衣