新蕎麦の、初打ち
その年の蕎麦と、初めて手のひらで会う数週間

アクツトモヤ(54歳・手打ち蕎麦屋30年)

実りの秋というのは、蕎麦屋にとっても特別な季節だ。木々が色づき、空が高くなり、風がひんやりとしてくる頃、製粉所から一通の便りが届く。新蕎麦の便りだ。その封を切るとき、私はいつも少しだけ背筋が伸びるような気がする。

便りには、その年の産地の作柄が書いてある。今年は北の畑が夏の長雨にやられて実の入りが薄い、その分こちらの高原のものが粒よく揃った、というように。夏のあいだ私は天気予報をぼんやり眺めているだけだが、製粉所からの一枚で、その夏がどんな夏だったかを粉のほうから教えられる。空を見て案じていたことの答え合わせが、秋になって粉で返ってくるのだ。

届いた袋を開けた瞬間の香りは、一年でこのときだけのものだ。青い、と言うほかない香りが、ふわりと立ちのぼる。刈りたての草のような、まだ少し水分を含んだような、若い匂い。この香りは長くはもたない。挽きたてから数週間で落ち着いてしまう、はかない香りなのだと思うと、なんだか胸がいっぱいになる。

初打ちは、いつもより慎重になる。新蕎麦は、水を食うのだ。同じ農家の同じ蕎麦粉でも、新しい粉は乾いていて、古い粉よりよほど水を欲しがる。水回しで半分を差して握ったとき、いつもの感触で「足りた」と思っても、新蕎麦はまだ乾いている。あと一差し、あと半差しと、手のほうも探りながら進めていくことになるのだろう。

店の戸口には「新蕎麦あります」の貼り紙を出す。女房が毛筆で書いた、毎年使い回しの一枚だ。この紙を出すと、客の顔ぶれが少し変わる。一年じゅう来てくれる常連にまじって、この時期だけ顔を出す客がいる。「今年も出たね」と言って、品書きも見ずに座る。新蕎麦の数週間というのは、そういう人たちのための季節でもあるのだ。

茹でと出汁も、この時期だけ少しだけいじる。香りを飛ばしたくないから、茹では気持ち短く、湯から上げる頃合いを早める。出汁も、いつもより少し控えめに引いて、蕎麦の香りに出汁が勝たないようにする。客に出す前、自分で一本手繰って、香りが立っているかを確かめる。立っていれば、よし、と思う。

そして、終わりの見極めがくる。日が経つにつれ、あの青い香りは少しずつ落ち着いていく。ある朝、袋を開けても、もうあの若い匂いが立たない。香りが穏やかになったと感じた日、私は貼り紙から「新」の字を外す。名残惜しいけれど、嘘はつけない。新蕎麦でなくなったものを新蕎麦と呼ぶことは、私にはできないのだ。

一年のうち、この数週間が蕎麦の暦の頂点なのだ。新蕎麦と初めて手のひらで会い、その香りを客に手渡し、そして静かに見送る。けれどそれを祭りのように騒ぐのではなく、私はただ、毎朝と同じ時間に木鉢の前に立つ。今日の新蕎麦も、握ればまた何か言うだろう。私は半分を差して、残りを手に取っておく。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。