エッセイ「中古車屋で見た最初の値段」の背後には、行動経済学の代表的なバイアスが置かれている。マークが$11,000の値引きに満足してしまったのは、彼の判断力が低かったからではなく、$12,000という最初の数字が彼の「適正価格」感覚を支配したからである。それをアンカリング効果(anchoring effect)と呼ぶ。
1974年、トヴェルスキーとカーネマンが報告した認知バイアスの一つに、アンカリング効果がある。実験:ルーレットを回して、被験者にランダムな数字を見せる。その後に「国連加盟国のうちアフリカの国は何カ国か」と尋ねる。見せた数字が大きい群と小さい群で、回答の中央値が明確に異なった。見せた数字は質問と無関係であるにも関わらず、人の判断はそれに引きずられる。
これは記憶の癖でも頭の良さでもなく、人間の判断プロセスに組み込まれた特性である。提示された数字(アンカー)から出発して、それを微調整して答えを出す。微調整の幅は十分でなく、アンカーから完全には離れない。
マークが見た最初の数字は$12,000だった。営業マンが寄ってきて「$11,000まで下げられる」と言ったとき、マークの脳内では「$12,000 → $11,000」という減算が起き、約8%の値引きという感覚が生まれた。「これは安い」と感じた。
しかしカーファックスで調べた相場は$8,500〜$9,500。もしマークが最初にカーファックスの数字を見ていたら、$11,000は「相場より$1,500〜$2,500高い」と感じたはずである。同じ$11,000という数字が、見たアンカーの違いによって「安い」にも「高い」にも見える。数字そのものに絶対的意味はない、ということを示している。
マークが結局$9,200の別の車を買えたのは、二週間という時間が彼のアンカーを希釈したからである。ただ、それでも$12,000の記憶は完全には消えなかった、と本文にある。
アンカリングは値段交渉だけでなく、多くの場面に作用する:
対策は、独立した参照点を先に作ること。マークが先にカーファックスを開いていれば、$12,000という表示に動じなかった。重要な判断の前に、自分なりのアンカーを設定しておくことが、相手のアンカーに引きずられない唯一の方法である。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。既存3作:ワタナベの妻×植木鉢(用語なし版)、マーク×芝刈り(用語あり版)、ワタナベ×実家(テセウスの船)。本作はそれらに続く五本のうちの一本である。