※本エッセイはすべて創作です。登場人物・団体・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織・事案とも関係ありません。
山田 花。十七歳。高校二年生。文芸部。
七年前の春、十歳の私は「もういいね」と、母に言った。
あの五文字が、母のエッセイ『四つ、同時にある』に書かれて、家族の歴史の一部になった。母は「もういいねと娘に肩代わりさせてしまった」と、その章を閉じている。
十七歳になって、私は、あの五文字を、母に返しに行く。
「もう、いい、じゃなかった」と。
これは、その秋の、訂正の話。
高二の十月。世界史の授業。日中戦争の章。
教科書のページに、グレーの古い写真が、二枚。中国大陸の風景と、戦時中の街並み。キャプションが短くついている。
先生は、淡々と説明していた。年表、出来事、傷者数の桁。
クラスの大半は、ぼんやり聞いていた。教科書の一章。期末試験に出るから一応覚えておく、それだけのページ。
私は、ページから、目を離せなかった。
そのページに書いてあるのは、私の中国側の曾祖父が、二十代の若者として、関わっていたかもしれない出来事だった。
そして、同じページに書いてある日本軍の側に、私の日本側の曾祖父——父方の祖母(由紀子おばあちゃん)の父——が、徴兵された若者として、立っていたかもしれない。
同じページの、両側に、私の二人の曾祖父がいる。たぶん、もしかしたら、同じ街で、同じ年に、別々の制服を着て、すれ違っていたかもしれない。
そう気づいた瞬間、教科書の写真のグレーが、急に、私の家の写真になった。
授業のあと、帰り道。私は自転車を漕ぎながら、二人の曾祖父のことを考えていた。
母方(中国側)の曾祖父は、抗日戦争の従軍経験があった、と母のエッセイに書いてあった。何を経験したかは、家族の誰にも話さなかった。「戦争の話だけは、絶対にしない人だった」と母が書いていた。
父方(日本側)の曾祖父は、徴兵で中国大陸に行って、終戦の翌年に帰ってきた、と祖母のエッセイ『四つ、ではなかった』に書いてあった。やはり、戦争の話は一切しなかった。「お父さんは、何もしていないよ」とだけ言って亡くなった、と祖母は書いていた。
二人とも、沈黙したまま、亡くなった。
沈黙の中身は、二人とも、家族には残さなかった。
でも、その沈黙が、母の世代に、祖母の世代に、そして、私の世代に、何か別の形で、残っている。
母は「敵対心」と「忘れていない」という言葉で、それを名づけた。
祖母は「分からないものを、分からないまま抱える」と、それを言い表した。
私は——まだ、何と呼んでいいか、わからない。
でも、ひとつだけ、わかったことがある。
七年前、十歳の私が言った「もういいね」は、間違っていた。
「もういい」と言うには、二人の曾祖父の沈黙は、まだ終わっていない。終わっていないものを、私が「もういい」と言って終わらせるのは、簡単すぎた。
家に帰って、自分の部屋で、母にLINEした。
花:「ママ、世界史で日中戦争の章、習った。中国側のひいおじいちゃんと、日本側のひいおじいちゃん、もしかしたら同じ場所にいたかもしれない、って今日気づいた」
母は仕事中だったらしく、返信は二時間後だった。
母:「あるかもね」
「あるかもね」、というそっけない五文字を、私は何度か読み返した。
母は、たぶん、この話題に、軽く反応するつもりはない。だから、長文を返さない。返したら、感情に飲まれる。だから、五文字。
そう判断して、私は、覚悟を決めて、こう書いた。
花:「私、小4のときに『もういいね』って言ったの、訂正したい」
送信して、私は、自分の部屋の壁を見ていた。
母は、たぶん、すぐ返さない。
母が、すぐ返さないというのは、母にとって、その話題が重い、という証拠だ。
三十分、四十分、一時間。既読のまま、返信は来なかった。
私は、机の上の英単語帳を、めくっては、閉じた。何度も。
一時間半経って、ようやく、返信が来た。
母:「訂正って?」
私は、深呼吸して、こう書いた。
花:「もう、いい、じゃなかった、って書きたい」
送信して、また、長い既読が続いた。
こんどは、二時間。
その二時間のあいだ、私は、母が傷つくかもしれない、と何度も思った。十歳の私が言った「もういいね」を、母はあのエッセイで、家族の物語の重要な場面として書いた。それを娘が、十七歳になって、訂正したいと言うのは、母のエッセイを否定することになるかもしれない。
母は怒るかもしれない。
泣くかもしれない。
あるいは、無視するかもしれない。
私は、覚悟を決めていた。母が怒っても、泣いても、それを引き受ける。だから、訂正の言葉を、ちゃんと言葉にして送った。
二時間後、母から、こう返ってきた。
母:「ありがとう」
……。
……えっ?
「ありがとう」。
私が想像していた、どの返信とも、違った。
私は、しばらく、画面を見ていた。「ありがとう」の五文字を、何度も、何度も、読み返した。
そのあと、母は、もう一行、追加した。
母:「あの『もういいね』を、訂正してくれて、ありがとう。あれを、誰かが、訂正してくれる日を、ずっと待ってた、ような気がする」
私は、自分の部屋で、ベッドにうつ伏せになって、ちょっと泣いた。
母は、訂正されることを、待っていた。
訂正してくれる人を、待っていた。
訂正してくれる人が、自分の娘である、ということを、たぶん、ずっと、心の片隅で、望んでいた。
母は、エッセイで「娘に肩代わりさせてしまった」と書いた。あの一行は、本心だった。けれど、その本心の下に、もう一つ別の願いが、あったのだ。
娘が、いつか、肩代わりを返しに来てくれる日を、待っていた、という願い。
私は、十七歳の秋に、それを返しに行った。母は「ありがとう」と返した。
これは、訂正、というよりは、受け取り直し、だった。十歳の私が母に渡した五文字を、十七歳の私が、いったん引き取って、別のかたちで母に返した。母は、それを、待っていた。
その夜、お祖母ちゃん(=由紀子おばあちゃん)にも、LINEした。
七十八歳のお祖母ちゃんは、最近、LINEをよく使っている。スタンプも上手に使う。「ようやく覚えました」と本人は言う。
花:「おばあちゃん、私、小4のときの『もういいね』、あれ、訂正したいです」
お祖母ちゃんは、五分くらいで返してきた。
祖母:「花ちゃん、だいじょうぶ。訂正しなくても、訂正しても、おばあちゃんはどっちも、いいと思いますよ」
……。
えっ。
「訂正しなくても、訂正しても、どっちもいい」。
これも、想定外だった。母の「ありがとう」とも、違う方向の返事。
私は、お祖母ちゃんの一行を、何度か読み返した。
「訂正しなくてもいい」と、お祖母ちゃんは言った。
「訂正してもいい」とも、言った。
両方、いい、と。
それは、肯定でも、否定でもない。「あなたが訂正したいなら、それは正しい。訂正しなくても、それも正しい」という、二重の許可。
これは、たぶん、お祖母ちゃんが、エッセイで書いていた「分からないものを、分からないまま抱える」という作法の、別の形だった。「訂正したか/しないか」を一つに決めなくていい、と、お祖母ちゃんは、私に言ってくれていた。
母は「訂正してくれてありがとう」と言って、訂正を一つの正解として受け取った。
お祖母ちゃんは「どっちでもいい」と言って、訂正と非訂正を、両方とも、正解として置いた。
二人の女性の答えは、違っていた。違っていて、両方、正しかった。
翌日の放課後、文芸部の部室で、私はノートを開いて、その夜のことを書こうとした。
書こうとして、書けなかった。
母とのLINEも、お祖母ちゃんとのLINEも、書こうとすると、何かが、すべる。エッセイにしようとすると、整理してしまう。整理すると、二人の答えが、違う方向を向いていたという事実が、平らになる。
私は、ノートに、最初の一行だけ書いた。
「もう、いい、じゃなかった」と「もういいね」と「どっちでもいい」、三つとも、正しい。
そのあと、続きが書けなかった。
「三つとも正しい」、と書いてしまうと、結論を出した気になる。でも、まだ、結論は出ていない。私は、三つの答えのあいだを、まだ、行ったり来たりしている。
その「行ったり来たり」を、十七歳の私が、文章にできる気がしない。
ノートを閉じた。窓の外で、文化祭の準備をしている軽音部のドラムが、聞こえていた。
書けないことを、書けないまま、抱えていく。これが、たぶん、お祖母ちゃんの「分からないものを、分からないまま抱える」の、私のバージョンだ。
その夜、家のリビングに、二人の曾祖父の写真を、こっそり並べてみた。
母方(中国側)の曾祖父——母が小さい頃に亡くなったので、私は会ったことがない。北京の母の実家に行ったとき、白黒の小さな写真を見せてもらった。スマホで撮らせてもらって、保存していた。
父方(日本側)の曾祖父——お祖母ちゃんの家のアルバムにあった、結婚式の白黒写真。コピーをもらっていた。
二人とも、二十代だった。私と、たった三、四歳しか違わない年齢だった。
そう思った瞬間、ようやく、私は、二人を、「ひいおじいちゃん」ではなく、「自分とそんなに違わない年齢の若者」として、見ることができた。
二十代の若者が、二人。それぞれ、別の制服を着て、中国大陸のどこかに、立っていた。
二人とも、何も話さずに、亡くなった。
その沈黙が、私の家の血の中に、入っている。
私は、その血を、薄めない。「もういいね」と言って、薄めることは、しない。
二人の若者の沈黙を、二十代になる前の私が、もう一度、引き取り直す。「もう、いい、じゃなかった」と言うのは、その引き取り直しの宣言だった。
引き取った沈黙を、これから、どうするかは、まだ、わからない。
母は「ありがとう」と言って、私の訂正を、受け取った。
お祖母ちゃんは「どっちでもいい」と言って、訂正そのものを、保留した。
私は、二人の答えのあいだで、まだ、行ったり来たりしている。
「もう、いい、じゃなかった」を、二十歳になっても、三十歳になっても、私は、ずっと言い続けるかもしれない。
あるいは、いつか、もう一度、「もういいね」に戻る日が、来るかもしれない。
どっちになるかは、まだ、わからない。
でも、十歳の私が、何も知らずに口走った五文字を、十七歳の私が、ちゃんと、引き取りに行った。それは、確かに、起こったこと。
引き取って、訂正して、母に返した。母は受け取った。お祖母ちゃんは、訂正することも、しないことも、両方、許してくれた。
これで、家族の中の三世代が、「もういいね」という五文字をめぐって、ようやく、ちゃんと、対話を始めた。
対話は、これから、何十年か続く。続けていく。
「もういいね」も「もう、いい、じゃなかった」も、両方、正しかった。
正しい同士の言葉を、家族のあいだで、行き来させていく。
それが、隣人として暮らすということの、家庭内バージョンだ。
——最後に、ひとつだけ、白状しておく。
世界史のテストで、日中戦争の章、私の点数は、平均より低かった。
あのページから、目を離せなかったのに、ページの中身は、ちゃんと頭に入っていなかった。
知ることと、覚えることは、別なんだ、と思った。
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山田 花(17)