ジュン、高校二年、二組。水曜の三限、倫理の授業でトロッコ問題を知った。即答した。同じ高校の一組で、前日の火曜の三限に、別の生徒が「納得がいきません」と先生のところに駆け込んでいたことは、知らない。
水曜の三限は倫理だった。先生は、プリントを配った。「トロッコ問題」と書かれていた。
線路を走るトロッコがいる。このまま行けば五人が轢かれる。レバーを引けば、別の線路に切り替わる。切り替わった先には、一人だけがいる。あなたはレバーを引きますか? 引きませんか?
先生は、プリントを読み上げたあとで、「考えてみてください」と言った。
考えなかった。考える必要が、なかった。
クラスは、しばらく、ざわついた。「えー」「迷う」「人を選ぶってこと?」。
手を、挙げた。
「五人を救います」
先生が、こちらを、見た。
「森田、その理由は」
「五人より一人のほうが、犠牲が少ない。それだけです」
クラスから、軽く、笑い声が、起きた。誰かが「ジュンらしい」と、言った。
先生は、頷いて、「では、別のバージョンを聞きます」と言った。
橋の上に立っている。下の線路を、トロッコが走っている。このまま行けば五人が轢かれる。橋の上には、あなたと、体の大きな男の人がいる。男の人を線路に突き落とせば、男の人の体がトロッコを止めて、五人は助かる。突き落としますか?
クラスは、しんとなった。
「えー、それは、ちょっと」「人を直接押すのは、ちょっと無理」
また、手を挙げた。
「同じことです」
先生は、頷いた。
「同じこと」
「五人より一人。論理的には、レバーと、同じです」
「直接、押す、というのは」
「物理的に、力を加えるかどうかの違いです。結果は、同じです」
先生は、しばらく、何も、言わなかった。
「森田は、迷わない」
「迷う必要が、ないので」
「そうですか」
放課後、家に帰る電車の中で、トロッコ問題のことを、もう一度、考えた。
考えたけれど、答えは、変わらなかった。五人を救う。それで、終わりだった。
同じクラスの誰かが、電車の中で、「ジュン、迷わなさすぎ」と、笑っていた。
「迷うものなのか?」と、聞いた。
「迷うでしょ、ふつう」
「ふつう、を、知らないので」
笑われた。それで、話は、終わった。
家に着いて、リビングのソファに、座った、ところで、母の携帯が、鳴った。母は、台所で、料理を、していた。
「もしもし」と、母は、言った。
母の声が、しばらく、止まった。
「えっ……ええ、はい、すぐ……」
母が、こちらを、見た。
「ジュン、おばあちゃん、転んだ。新潟の家で」
「えっ」
「命に別状はないって。けど、骨折で、入院」
「そう」
「お父さんが、帰ってきたら、相談しないと、ね」
「うん」
「これから、おばあちゃん、どうするか」
「リハビリ施設に入れる」
「えっ」
「そのほうが、合理的に、いい」
母は、しばらく、何も、言わなかった。鍋の音が、聞こえていた。
「合理的に」
「うん」
「ジュン、それは、お父さんと、お祖母ちゃんと、相談してから、決めることだよ」
「相談しても、結論は、同じだと思う」
「思う、ね」
「思う」
母の声が、少しだけ、いつもと、違った気がした。気がした、だけ、かもしれない。
新潟のおばあちゃんは、母の、母だった。
夜、自分の部屋で、机に向かった。数学の宿題を、広げた。
倫理の授業のことも、おばあちゃんの電話のことも、頭の中では、すでに、整理が、ついていた。
トロッコ問題:五人を救う。
おばあちゃん:施設に入れる。
両方、答えが、出ていた。
数学の宿題を、解き始めた。x の値が、ひとつ、出た。出た値を、ノートに、書いた。
x の値は、ひとつだった。
トロッコ問題の答えも、ひとつだった。
おばあちゃんの行く場所も、ひとつ、決まればいい。
決まれば、いい。
窓の外で、車のヘッドライトが、ひとつ、通り過ぎた。
母の声が、少しだけ、いつもと、違った気がした、というのが、頭の隅に、残っていた。
残っていた、けれど、気にしなかった。
気にしないことが、合理的だった。
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← 関連:トロッコ問題シリーズの種明かし
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【ジュンのトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第1話。アヤのトロッコ問題シリーズ(全9話、完結)と並行する三週間を、別のクラス(二組)の生徒ジュンの視点で描く。ジュンは即答する側、論理を信頼する側。アヤとは、途中まで、一切交流しない。同じ家族の問題(おばあちゃんの介護)が、同じ三週間に、別のクラスから、別の倫理観で、立ち上がる。