編集部メモ
本ページは、九話で完結した 『先生、納得がいきません』から『火曜の三限、もう一度』までのトロッコ問題シリーズの設計を、書き手側から開示するものである。先に九話を読んでから戻ってきてもらえると、二度目の読みの入口が開く。シリーズの仕掛けと、書き手の意図と、九話で何を書こうとしたか、を、自分のために整理しておく。
『分かる、けど』のネタばらし(wakaru-kedo-tane.html)と同じ位置の、書き手の備忘の三作目である。
このシリーズは、ふたつの核心から始まった。
ひとつは、「納得しないまま帰っていく」という未解決の出発点。アヤが倫理の授業でトロッコ問題を知り、納得できずに先生に質問しに行き、答えを聞いても納得しないまま帰る、という第一話の輪郭。これが、シリーズ全体の動力源になった。
もうひとつは、「日常で先生の言葉が立ち上がる」という複層構造の要請。授業で出会った思考実験が、日常やニュースの中で、別のかたちで現れる。「先生が言っていたのは、こういうことだったのか」と、アヤが体感する場面を、シリーズの各話に織り込む。
このふたつが、九話の骨格になった。
主役にアヤ(小川アヤ)を据えた理由は、三つあった。
シリーズ全体は、アヤの当事者性を一段ずつ深めていく階段で設計した。
| 話 | 場面 | アヤの位置 | 発見 |
|---|---|---|---|
| #1 | 倫理の授業/帰り道の犬と猫 | 受動・観察者 | 動かないことも選択 |
| #2 | 朝の駅のエレベーター | 能動の自己縮減 | 譲り合いという別の配分 |
| #3 | 合唱コンクールの投票 | 数で並べる側・自己矛盾 | 白票も配分に加わる |
| #4 | 家族の介護議論 | 小さな介入者 | 本人に聞くという選択肢 |
| #5 | 電話、おばあちゃんの応答 | 介入が効く | 本人の声で選択肢が変わる、第四選択肢 |
| #6 | おばあちゃん転倒、家族会議 | 不在の本人を代弁 | 言葉が時を超えて地図になる |
| #7 | ミユとの対話 | ひとりから二人へ | 一緒に考える、という形 |
| #8 | 病室、おばあちゃんと再会 | 本人と直接 | 渡し合う、世代を貫通する言葉 |
| #9 | 倫理の先生に再訪 | 言語化する側 | 納得しないまま、考え続ける、という倫理 |
当事者性は、観察→場の一員→数で並べる側→介入者→当事者の代弁→共同探究→本人と直接→言語化、と九段の階段を登る。受動から能動へ、ひとりからふたりへ、近くから遠くへ、という三つの軸が同時に動いている。
#1 で先生が言った三つの言葉が、シリーズ全体の伏線として機能した。
「数にしたくない、というのも、ひとつの立場です」——義務論への接続。アヤの違和感が、すでに一つの倫理的立場であることを示す。後の各話で、アヤが「数にしたくない」と思いながら、数で並べる場(投票、家族会議)に立つたびに、この言葉がアヤの中で立ち上がる。
「結果として、誰かに先に届き、誰かに後で届く」——シリーズ最大の伏線。最初は単なる「リソース配分」の表現だが、各話で異なる角度から立ち上がる。譲り合い(#2)、投票(#3)、介護(#4)、電話(#5)、本人不在の判断(#6)、聞かれることの先取り(#6 の時間軸)、世代を渡される言葉(#8)。最後には時間軸での「先に届く・後で届く」に転位する。
「納得しないまま、考え続ける、というのが、いちばん、倫理に近い態度です」——シリーズの締めの言葉として最初から用意されていた。アヤが #9 で「納得しないまま、考え続けます」と先生に返し、先生が「それで、いいんです」と応える、その一往復のために、シリーズの全 9 話があった、と言ってもいい。
三つの言葉を最初に置いて、九話の中で何度も立ち上がらせる、という設計は、最初から決まっていた。語の伏線を最初に蒔いて、各話で違う角度から照らす——シリーズ全体を伏線の遅延爆発として書く、というのが、本シリーズの最も大きな仕掛けだった。
九話のあいだに、アヤの中で増えた語彙——シリーズが残したアヤの倫理の道具箱:
九つの語彙が、九話のあいだに、アヤの中に蓄積された。それは、答えではなかった。答えではないものを、抱える道具だった。
このシリーズには、いくつか、書き手の思想的な意図が、薄く、織り込まれている。
1. サンデルのトロッコ問題を、日本の高校生のリアルな日常で受け止め直す。サンデル『これからの「正義」の話をしよう』は二〇一〇年代に日本でも広く読まれ、トロッコ問題は「教養」として一般化した。しかし、思考実験のままで止まると、倫理は記号化する。アヤの三週間は、思考実験を、譲り合い・投票・家族介護・電話・病室・友人・教師との対話、という日常の場面に降ろしていく試みだった。
2. 西洋哲学の「強制された二者択一」と、日本文化の「譲り合い」の対比。#2 の朝のエレベーター譲り合いは、トロッコ問題の枠の外に、合意による配分を置く。日本の高齢者と若い母親の譲り合い文化を、シリーズの早い段階で提示し、トロッコ問題の暴力的な前提(「あなたが決めなさい」)に対する別解として配置した。
3. 当事者の声を入れる、という発想。#4 でアヤが「おばあちゃん、自分でどう思ってるかな」と父に言う場面が、シリーズの転回点である。トロッコ問題には、五人と一人の声がない。現実には、本人の声がある。当事者の声を入れると、選択肢の枠そのものが変わる、という発見(#5)が、シリーズの中盤を支えた。これは、医療倫理の informed consent や、当事者主権の発想と、薄く繋がっている。
4. 共同で考える、という哲学的伝統。#7 でアヤがミユに話すとき、ミユは答えを出さない。「分かる、けど」と返すだけ。共同で考えるとは、答えを共有することではなく、答えがないものを共同で抱えていくこと——これは、対話的探究(ソクラテス対話)の系譜と、現代の哲学カフェの実践に、薄く繋がっている。
5. 倫理は語彙の蓄積である、という見立て。シリーズが書き手としていちばん書きたかったのは、「倫理とは答えを持つことではなく、語彙を増やしていくことかもしれない」という見立てだった。九話のあいだに、アヤは九つの語を獲得した。それぞれの語は、別の場面で別の意味を持つ。語彙が増えれば、見える場面が増える。見える場面が増えれば、また、語彙が増える。倫理とは、その循環を続けることなのかもしれない、と書き手は考えていた。
シリーズを 9 話で閉じた理由は、いくつかある。
続きは、書ける。ニュース、災害、医療、AI、自動運転、戦争、選挙、いくらでも書ける。しかし、書ける量と、書くべき量は、違う。書くべき量で止めることが、シリーズの構造的美しさを最大化する、と書き手は判断した。
九話を読み終えたあとに、もう一度、最初から読み返すと、伏線の遅延爆発が見える、はずである。
これらの繋がりは、書きながら、ひとつずつ、確かめていった。書き手は、最初に三つの伏線を蒔いて、九話のあいだに、それを少しずつ咲かせていく庭師だった。読者には、咲いた花を、順に見てもらう設計だった。
シリーズは閉じる。けれど、アヤの三週間は、これから何度でも、読み返せる。読み返すたびに、違う花が、咲いて見える、はずである。咲いて見えなければ、それは設計の失敗ではなく、その花は、いまの読者の中で、まだ、咲く時期ではない、ということかもしれない。
書き手としては、咲く時期を、待っている。
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← 関連:経験がないと、切れないか(書き手の備忘・第三作)
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