カンザキシュウ(52歳・天ぷら職人30年)
夜の油の前に立つ私を見て、客は天ぷら職人の一日が暮れから始まると思うらしい。けれども本当の一日は、まだ暗いうちに始まっている。市場の朝こそが、その夜のカウンターの半分なのだと思う。種は、揚げる前にもう半分まで決まっている。
市場の朝は活気に満ちている。掛け声が飛び交い、ターレが行き交い、長靴が濡れた床を鳴らす。その熱気の中を、私はいつも同じ順番で歩く。まず魚河岸、それから青果。魚は朝のうちに動くから先に見て、野菜は後で拾う。馴染みの店の前を通ると、向こうが顎をしゃくる。言葉ではない。「今日のはいい」の符丁の朝だ。三十年通って、ようやくこの顎の角度が読めるようになった。
海老は、頭の色で買う。活けの車海老なら、手に取って締まりを見る。指で押して、跳ね返してくるものがいい。頭の付け根がうっすら黒みを帯びていたら、見送る。鮮度が落ちはじめの色だ。とはいえ、目利きというのは結局、揚げてみるまで分からない部分も残るのかもしれない。朝に選んだ海老の答えは、その夜、油の中で返ってくる。衣を着せて鍋に入れたとき、尾の赤の立ち方で、朝の選択が正しかったかが分かる。
季節の走りと名残は、値段に出る。初鰹のように、走りの値段は高い。初物のアスパラも、出はじめは目の玉が飛び出る。それでも私は、走りを一度は仕入れる。客に「もう出たのか」と言わせる一品が、献立の入れ替えの合図になるからだ。名残のものは安くなるが、安いから使うのではない。名残には名残の、煮詰まった甘さがある。走りの値段で季節の頭を知り、名残の値段で季節の尻尾を見送る。
八百屋とは、長い付き合いになる。先代からの店で、もう三十年だ。私はよく、畑の都合を聞く。「今年のアスパラはどうだ」。すると、太いのを揃えるには、あと十日待てと言う。畑の都合は、こちらの都合では動かない。だから注文も、太さで頼む。「親指くらいのを」と言えば、向こうは黙ってうなずく。長く付き合うとは、たぶん、こういう短いやりとりで通じ合うようになるということなのだろう。
仕入れたものは、氷の箱に詰めて持ち帰る。鮮度は、店に着くまでの時間との勝負だ。海老は氷に直接当てない。新聞紙を一枚かませる。当てすぎると身が締まりすぎて、揚げたときに反り返る。発泡の箱の蓋を、市場を出る前にもう一度押さえ直す。ここから店まで、四十分。その四十分のあいだも、種は生きている。
店に戻れば、すぐに下処理にかかる。市場の熱がまだ手に残っているうちに、海老の背わたを竹串で抜き、魚の骨を抜く。背わたは、一節目と二節目のあいだに串を差し込んで、すっと引き上げる。途中で切れると、苦みが残る。朝の市場で見た一尾が、ここで初めて私の手の中で種になる。仕入れと仕込みは、ひと続きの動作なのだ。
そして夜、油の前に立つ。鍋に海老を入れる。尾の赤が、すっと立つ。朝、頭の色で選んだ一尾の答えが、いま油の中で返ってくる。市場の朝は、夜の油の前で答え合わせをするためにある。仕入れが料理の半分なのだ。私は今日も、まだ暗いうちに長靴を履く。あの符丁の朝へ、また歩いていく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。