個別指導塾、夜八時すぎ。最終コマが終わって、生徒たちが順に出ていく。私は大学二回生、二十歳、ここでは「ケイ先生」と呼ばれている。五月の、まだ少し冷える夜。
最終コマのチャイムが鳴る。机の上のホワイトボードを消す。マーカーの匂いがして、指の側面に青いインクが少し残る。
受付のほうから、生徒たちの「お疲れさまでした」の声がばらばらに聞こえる。中学生は早足、高校生はもう少しゆっくり。自動ドアの音が、何度か続けて鳴る。
講師室に戻ると、他の講師は二人。大学院生の人と、社会人の人。挨拶だけして、それぞれのパソコンに向かっている。私のテーブルは窓際で、外には自販機の明かりだけがある。
静けさは、嫌いじゃない。授業のあいだ、ずっと声を出しているので、声を出さない時間が来ると、ほっとする。
講師室の扉が、半分だけ開いている。受験生の中学三年生が、一人だけ残っている。私の担当である。
来週の課題のチェックを、今日中に済ませることになっていた。ノートを持って、扉のところに立っている。
「ケイ先生、お願いします」
と、その子が言う。私は、はい、と答えて、椅子をひとつ寄せる。
ノートが机に置かれる。数学の文章題。三ページ分の、答案。字は丁寧で、式の流れも整っている。
整いすぎている、と思う。
三問目の、最後の一行。「ゆえに、求める速さは時速六キロメートルである」。この子は、ふだん「ゆえに」を使わない。前回までのノートでは、「だから」だった。
解き方の順番も、教科書の例題とは少しずれている。私が授業で教えたやり方とも、ずれている。あるルートを通って、ちゃんと答えにたどり着いている。きれいに。
たぶん、AI に解かせている。
断定はできない。でも、塾講師を一年やっていれば、ノートの「他人の編集」は、なんとなく分かるようになる。文体が一段、よそ行きになる。
講師室の中で、AI で済ませた宿題をどう扱うか、という話は、たまに出る。検出ツールを入れたほうがいい、という人もいるし、そこまでやると、関係が壊れる、と言う人もいる。私は、まだ自分の答えを持っていない。
だから、見て見ぬふりを、している。今日まで。
その子は、机の向かいに座っている。シャーペンを手に持って、私が口を開くのを待っている。
「ケイ先生」と、もう一度呼ばれる。
サークルのみんなは、私を下の名前で呼ぶ。「さん」も「先生」も付かない。ナミも、下の名前で呼ぶ。ソウタくんは、「ケイさん」と呼ぶ。塾では、「ケイ先生」になる。
同じ私が、呼ばれかたで、少しずつ別の輪郭に整えられていく。
「先生」の輪郭は、いちばんはっきりしている。背筋が伸びるし、語尾が丁寧になるし、笑い方も少し抑える。ホワイトボードの前に立つと、自動的にそうなる。私は「ケイ先生」を演じている、というほど大げさではないけれど、何かに合わせて自分を整えている、とは思う。
整えること自体は、たぶん、悪いことではない。
ただ、整えすぎたものは、整えたあとの形しか残らない。
私は、ノートの三問目を指で押さえる。
「ここの、ゆえに、っていう書き方」と、私は言う。
「あ」と、その子の目が、少しだけ動く。
「前は、だからって書いてたよね」
「……はい」
沈黙が、たぶん三秒くらいあった。受付で、コピー機が動く音がする。私は、責めるつもりはない、ということを声色に乗せようとして、たぶん、少し失敗している。
「答え、合ってるよ」
「……」
「合ってるんだけど」
その子は、シャーペンの尻でノートを軽く叩く。叩いて、止める。たぶん、うちのクラスの LINE グループのことや、Discord で誰かが共有した解き方のことや、そういうものが頭の中で動いている。私もそういうものは、自分の高校生の頃を含めて、知っているつもりではある。
塾代が、四月から月で四千円上がった、と保護者面談で聞いた。奨学金の話を、保護者と私と本人で、三人で少しした。費用の話は、教室の中にも、薄く広がっている。だから、宿題を早く片付けたい気持ちも、分かる。睡眠時間のこと、部活のこと、ぜんぶ重なる。
分かる、と言ってしまうのは、簡単で、たぶん、ちょっと違う。
私は、ノートを閉じない。三問目のページを開いたまま、新しいページのほうを、指でめくる。
「次の宿題のときさ」と、私は言う。
「はい」
「最初の一行は、AI じゃなくて、自分で書いてみて」
その子は、私の顔を見る。叱られた、という顔ではなくて、何を言われたのか、考えている顔。
「最初の一行だけでいい。途中で詰まったら、調べてもいい。最後まで自分でやってって、私は言わない」
「最初の、一行だけ」
「うん」
少し間があって、その子は、小さくうなずく。素直なうなずき方だった。
「分かりました」
言わなかったことが、たくさんある。AI を使うのが悪い、とは言わなかった。自分で考えるのが大事、とも言わなかった。最初の一行は、編集される前の場所だ、ということも、言わなかった。それは私が、自分のために、しまっておいた言葉だった。
その子は、ノートをカバンにしまって、お疲れさまでした、と言って、出ていく。自動ドアの音が、最後にもう一度。
八時四十分。講師室には、私だけが残っている。他の二人も、いつのまにか帰っていた。
自分の今日の授業ノートを開く。新しいページ。私は授業のあと、その日に気づいたことを、一行ずつ書きとめる癖がある。誰にも見せない。
シャーペンを握って、止まる。
最初の一行を、自分で書いてみる。
「整えすぎた答案には、整えたあとの形しか残らない。」
書いて、消そうかと思って、消さなかった。窓の外で、自販機の明かりだけが、まだついている。
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